2月 燠(おき)①
鈍いバイブ音で、小峰雄太は目を覚ました。
ジーパンのポケットをまさぐり、スマフォを取り出すと、自分のではなく隣のブースにいる人のスマフォが鳴っているのだと気づいた。
時間を見ると、朝の7時30分だった。
今日は朝9時から新橋で、イベント会場設営のバイトをすることになっている。起きるのにちょうどいい時間である。
ネットカフェでの生活も既に3カ月になる。
あちこち泊まり歩いた結果、新宿のビルに3フロア入っているネットカフェが一番快適だという結論に達した。
1フロアしかないようなネットカフェだと、個室が狭くて落ち着けない。喫煙席と禁煙席で分かれていても、タバコの煙が充満するので、タバコを吸わない雄太には苦痛だった。
その点、新宿のネットカフェは喫煙席と禁煙席でフロアが分かれているので、気に入っていた。
雄太はブースを出て、ドリンクコーナーでホットコーヒーを入れた。
ブースに戻り、朝食用に買っておいたパンを取り出す。コンビニで売っているバターとアズキ入りのコッペパンは、1つ食べるだけで結構腹もちがする。高カロリーなので体を動かす仕事の前に食べておくと、それなりに力が出るのだった。
泥のようなコーヒーで、甘ったるいパンを流し込むように食べる。食事を味わいながら食べていたのは、はるか昔のような気がする。
食べ終えると、洗面所で歯磨きをした。
鏡に移る自分の姿は、数年前の自分からは想像もできないほど、醜く太り、頬には吹き出物が広がっている。
空腹を抑えるために、チョコレートやキャンディーをバクバク食べているせいだろう。板チョコを一枚ペロリとたいらげることもある。
体重は80キロを超え、今ではジーパンのボタンをはめられなくなり、ベルトで何とか押さえているような状態だった。
――何をやってもうまくいかない。
――何をやってもうまくいかない。
鏡を見ながら、もはや呪文のようになっている文句を心の中でつぶやく。
――こんな人生に、意味があるのか?
何度自問しても、答えなど出ない。舌がヒリヒリする歯磨き粉を吐き出し、口をざっとゆすいだ。顔を洗って、黒縁のメガネをかける。
――だったら、何も考えるなよ、俺。
ブースに戻ると身支度をし、リュックとボストンバッグを持って外に出た。
歩道に出ると、軽く伸びをする。革張りの椅子はリクライニングできるものの、硬いのでいくら眠っても疲れはとれない。肩と首を動かすと、ボキボキ音が鳴る。
――せめて今週末はカプセルホテルに泊まりたい。そのためには、今週は休まず働かないと。
新宿駅の改札付近で、数人の中年女性が円になって立っていた。これから高尾山にハイキングにでも行くのだろう。みなリュックを背負い、帽子をかぶり、トレッキング用のウェアを身につけている。
朝の混雑している改札付近で談笑しているので、人の流れがそこで止まってしまう。みな迷惑そうによけているのに、本人達は気付かない。
雄太は脇を通るときに、ボストンバッグを肩に担ぐふりをしながら、わざとそこにいた女にバッグをぶつけた。
「いたっ」
女は小さく声を上げたが、雄太は振り向きもせずに人の流れに紛れて改札に入る。本当は後頭部を殴りたいぐらいだった。
――たぶん、あいつらは『今時の若いもんは、ぶつかっておきながら謝りもしない』とか言って、憤慨してるんだろな。世の中に迷惑かけてるのは、お前らのほうだっての。まったく、世の中には役に立たないゴミみたいなやつばかりが、ウジャウジャいやがる。掃いて捨ててやりたいよ。
階段を下りると、ちょうど山手線がホームに滑り込んできたところだった。目の前に止まった車両からは大勢の客が吐き出され、雄太はほかの客に押されるようにして車内に乗り込んだ。
――久しぶりだな、こういうラッシュも。
暖房がかかっている車内は、熱気がこもって息苦しい。雄太は人々の頭の間から顔を突き出し、少しでも新鮮な空気を吸おうとした。
そのとき、少し離れたところに見慣れた顔を見つけた。
――あっ、茂木じゃないか。
それは大学時代の同級生だった。
グレーのコートを羽織っている茂木は、いかにもサラリーマンといういでたちである。学生時代に比べると少し額が広くなり、痩せたようだ。背後から押す人に負けないように、必死に吊皮を握って体をそらしている。
雄太は慌てて顔をそらし、体の位置を変えて顔を見られないようにした。
改めて自分の姿を見てみると、茶色の革ジャンはあちこちがすれて、すっかり色あせている。膝と尻に穴の開いたジーパンは黒ずみ、毛玉だらけの緑のセーターはあちこちにシミができている。
きちんとした職についていないのが一目で分かる姿だ。
――確か、茂木は公務員になったんだよな。大学時代は、『公務員なんて、何が面白いんだ』ってバカにしたっけ。それが、今では……。
渋谷に着くと、降りる人に巻き込まれて雄太は茂木が立っているところまで押されそうになった。あわてて吊り革につかまり、足を踏ん張る。雄太が人の波をさえぎる形になり、降りる人達は迷惑そうに舌打ちし、睨みつけていった。
乗り込んでくる人達によって、雄太は再び通路の奥まで押し戻される。茂木が立っていた辺りをチラリと見ると、姿が見えない。どうやら渋谷で降りたらしい。
雄太はホッと息をついた。
――こんな姿、知っているやつには絶対に見られたくないよな。
ふと、「負け犬」という言葉が頭に浮かんだ。
雄太は卒業と同時にとあるITベンチャー企業に就職した。システム開発をするその会社は、入社して最初の3年は飛ぶ鳥を落とすような勢いで急成長していた。雄太は実力を認められ、取締役の一人になった。
その3年間に雄太は高級マンションと高級車を買い、高いブランド服に身を包み、グラビアモデルと結婚をして子供もつくった。同級生の倍以上の給料をもらっていたので、勝ち組として羨ましがられていた。
だが、急激な事業拡大が裏目に出て、あっという間に経営は苦しくなってしまった。転落を始めると、勢いは止まらない。とうとう2年前に社長は夜逃げし、倒産してしまった。
一夜にして職を失った雄太は、マンションや車を売り払い、妻からは離婚届を突きつけられ、養育費まで請求されるはめになった。天国から地獄、勝ち組から負け組へと180度生活が変わってしまったのだ。
前の会社と同じような待遇を求めて転職活動をしたものの、どこの企業からも相手にしてもらえなかった。その後、バイトを転々として今のような生活を送るようになった。
――何をやってもうまくいかない。
――何をやってもうまくいかない。
――何をやってもうまくいかない。
湧き出てきた感情に、急いでフタを閉める。
意識をそらせるために窓の外を見ようとしたとき、ドアの上の液晶画面に映し出されているニュースに気づいた。
『奥多摩老人ホーム放火事件 犠牲者さらに増える
今日未明、意識不明で重体だった坂本一平さん(73)が、入院先の病院で息を引き取った。これで、放火事件での犠牲者は19名となる。犯人の手がかりは今のところつかめていない』
――これで19ネンキンか。
雄太は最後の文章を繰り返し読み、安堵した。
ジーパンのポケットに入れていたスマフォが震えて、LINEメッセージが届いたのを知らせた。取り出してチェックすると、発信者は「胸焼け」だった。
おはようございます。今日会う約束は大丈夫ですか?
雄太は電車に揺られながら、すばやくメッセージを打った。
大丈夫です。今晩7時に、指定の場所に行きます。




