2月 燠(おき)②
雄太は新宿駅近くのビルの地下にある喫茶店で、胸焼けを待っていた。
喫茶店に入るのは久しぶりである。
生活が苦しくなってからは、マクドナルドや立ち食いそばぐらいしか利用していないので、普通の喫茶店に入ると妙に緊張する。
メニューを受け取り、コーヒー一杯1000円という金額に目を丸くした。
――まずい、こんなとこで1000円も使っちゃったら、カプセルホテルには泊まれないよ。コーヒー一杯のために、それはイタすぎる。
店員から「ご注文は?」と聞かれても、雄太は「つれが来てから頼みます」と答えて水を頼んだ。
もし、胸焼けが現れなかったら、「つれが来なかったので」と言い訳して、何も頼まずに店を出るというシミュレーションを頭の中でしてみる。恥ずかしいなどと言っている場合ではない。
――俺も、昔はこういう高い喫茶店で、ふつーにコーヒー飲んでたのに。人はあっという間に堕ちるものなんだな。
待っている間にすることもないので、メニューに書いてあるコーヒーに関するうんちくを読んでいた。だが、さっぱり頭に入らない。1分が10分ぐらいの長さに感じられた。
そのとき、ジーパンのポケットに入れていたスマフォが振動した。
取り出して、雄太は「なんだよ」と思わず低くつぶやいた。画面には「ひかる」と表示されている。
席を立ち、階段を上りながら「はい」と不機嫌そうに電話に出た。
「ねえ、何度も電話してるのに、どうして出ないのよ」
いきなり尖った声が耳に刺さった。
「しょうがないだろ、忙しかったんだから」
「わざと出ないんじゃないの?」
意地悪な聞き方に、雄太はため息で返した。
ビルの外に出て、「それで、何の用だよ」とぶっきらぼうに尋ねた。
「だからあ、半年前から何度も言ってるじゃない。養育費が振り込まれてないって」
「だからさ、それは何度も言ってるだろ。会社が給料支払うのが、遅れてんだよ」
「半年も給料なしってこと? そんなのあり得ない」
「もらってるけど、お袋が入院してるから、仕送りしてんだってば」
「本当に入院してんの? どこの病院?」
意地悪そうな声音でひかるは問う。
「そんなの聞いて、どうすんだよ」
「そこの病院に、本当に入院してるのか、聞いてみるから」
「バッカだなあ、お前。今はどこの病院も、そんなことを聞いても教えてくんないよ。個人情報を保護しなくちゃならないから、入院患者の名前も教えられないんだよ」
「えっ、そうなの?」
ひかるは、明らかにうろたえている。
「……でも、いいから、教えて。そこに行って聞いてみるから」
「だからあ、行っても教えてくれないんだってば。自分で何号室の誰それに会いに来たって言わない限り、ダメなんだって。あ、見舞いに行くなんて言うなよ。お袋がお前のこと嫌ってたのは、お前も知ってるだろ? 絶対、言うなって言われてるから」
「……」
珍しく突っかかってくるところを見ると、おそらく、誰かがひかるに入れ知恵をしているのだろう。
だが、どんな入れ知恵をされていても、ひかるを言いくるめることぐらい、雄太には造作ない。
「それじゃあ、お金はいつ振り込まれんの。このまま養育費払えないんだったら、訴えてやるから」
「どーぞ、どーぞ。弁護士頼むのにカネがものすごくかかるって、知ってんのか? それに、裁判になったら、お前が育児放棄してること、俺言っちゃうからな。バラしちゃうから」
「イクジホーキ? 何、それ」
その答えに、雄太は爆笑した。そばを通る人が驚いた顔で雄太を見るので、慌てて真顔に戻る。
――我ながら、よくこんなバカ女と結婚したもんだよなあ。
元グラビアアイドルのひかるとは合コンで知り合い、つきあいはじめて3ヶ月で結婚した。
そのころは六本木ヒルズに住んでいて、雄太は羽振りがよかった。
ひかるはブランドものの服やバッグを買いあさり、絵に描いたようなセレブな生活を送っていたが、雄太の勤めていた会社が倒産したら、あっという間に実家に帰ってしまった。
今はホームレスになっていることは、ひかるに伝えていない。
小さい会社に就職したものの、半年で嫌気がさして辞めてしまったことは伏せてある。ひかるにそこまで堕ちたのだと思われるのは、わずかに残っているプライドが許さなかったのだ。
「ホーキって、掃除に使う箒じゃないから。子育てを投げ出してるってことだよ」
「そんなことないよ。綺羅羅をちゃんと、かわいがってるからっ」
「そっかあ? だって、綺羅羅を置いて、毎日男と遊びに行ってるって、俺は聞いてるけど。男ん家に泊まって、帰って来ないこともあんだろ? そういうのを、育児放棄って言うんだよ。お前の親も、孫をほったらかしてパチンコに行ってるって言うじゃないか。どの辺が、ちゃんと子育てしてるんだよ」
「……」
綺羅羅というのは、雄太の娘の名前である。
何度聞いても、雄太はわが子の名前になじめない。
ひかるがこの名前を考えたとき、雄太は「アニメのキャラクターじゃないんだから、もっと普通の名前にしてくれ」と全力で反対した。だが、「絶対これ以外、考えらんない」とひかるは一蹴し、勝手に出生届を出してしまったのである。
まわりから「お子さんの名前は?」と聞かれて、「綺羅羅」と答えるたび、雄太は穴があったら入りたい気持ちになっていた。
その綺羅羅は、今年で4歳になる。
最後に会ったのは1年前。でも、我が子に会いたいという気持ちはまったく湧いてこない。離婚前から、一緒に過ごす時間はほとんどなかったのだ。
「だからさ、会社の経営がよくなって、お袋の具合がよくなったら、養育費もちゃんと払うよ。まあ、しばらくかかるかもしんないけど。お前んちは地主なんだから、生活に困るわけじゃないんだろ? 父ちゃんにカネもらえよ」
「……」
ひかるは黙り込み、荒い息遣いだけが聞こえてきた。怒っているのだが、どう反論すればいいのか分からないのだろう。構わずに、雄太は電話を切った。
そのとき、「あの、もしかして、代表さんですか」と男に声をかけられた。
「私、胸焼けです」
喫茶店に入ると、胸焼けと名乗る男は雄太の前の席に腰を下ろした。
「何か注文しましたか……まだですか。ここは有機栽培のコーヒーが売りなんですよ。ここのコーヒーを飲んだら、ほかの店のコーヒーは飲めなくなりますよ」
「えと、じゃあ、ブレンドを」
「マスター、ブレンドを2つ」
胸焼けと名乗る男は、見たところ60代ぐらいである。
ロマンスグレーの髪はきれいに整えてあり、銀縁のメガネをかけている。髪の色に合わせているのか、渋いグレーのスーツは、いかにも高級そうだ。
切れ長の目は、男なのに妙に色気がある。おそらく、女にはモテるだろう。
雄太は、祖母が杉良太郎のファンだったことを思い出した。
雄太が小学生の頃、ビデオで歌っている杉良太郎を見ながら、「切れ長の目で流し目されると、弱いわあ」と言っていたのである。
変な人物だったらどうしよう、と警戒心を抱いていた雄太は、俳優にでもいそうな男前が現れたので、却って困惑している。
同時に、60代ぐらいのいい大人がブログを見てまじめにコメントを寄せていることに、軽い違和感を抱いた。
「何かトラブルでもあったんですか。先ほど、電話でケンカをしてたみたいですけど」
胸焼けは優雅に足を組みながら尋ねた。
「いや、あの、別れた妻から電話があって、ゴチャゴチャ言われたんで」
「養育費を払えとか」
「そ・そうなんです」
雄太は言い当てられて、驚いて胸焼けの顔を見た。
「だいたい、別れた女房が連絡してくるときは、金の無心ですよ。僕も経験があるんでね」
「そうですか」
コーヒーが運ばれてきた。雄太は勧められるまま一口すすり、
「これ、うまいっすね」
と、思わずつぶやいた。
ネットカフェでは泥のようなコーヒーしか飲んでいないので、まともなコーヒーを口にしたのは久しぶりである。
「そうでしょう。ここのオーナーはコーヒーにひじょうにこだわりを持っていてね、日本でもこれだけいいコーヒーを飲めるところは、なかなかないと思いますよ。香りからして、普通のコーヒーとは違いますから」
胸焼けもブラックのままゆっくりとすする。
「代表さんは、何のお仕事をされてるんです?」
「……前はパソコン教室のインストラクターをやってたんですけど」
「ブログのプロフィールにも書いてありましたね」
胸焼けは足元に置いてあるリュックとボストンバッグにチラリと目を走らせ、
「もしかして、ネットカフェで寝泊りされてるんですか」
と尋ねた。
「あー、まあ、今はそうですね……たまに、ですけど」
雄太はあいまいに答えた。
「あの、胸焼けさんは、何のお仕事をしているんですか」
「その前に、胸焼けさんはおかしいですよね。むねおさんとでも呼んでください」
「はあ」
「僕は、多くの人を幸せにするような仕事をしているんです。今は具体的には言えないんですが、いずれ私の活動も分かると思いますよ」
「はあ」
――怪しい、この人。
雄太の中で警戒心のランプが点滅した。それでも、表情には出さずに涼しい顔でコーヒーを飲む。今日の目的を果たすまで、席を立つわけにはいかなかった。




