10月 火風 ③
「それにしても、日本の事務所に電話をかけてもつながらないなんて、どういうことですかねえ」
明が不安そうに言った。
「もしかして、夜逃げしたとか」
「まさか、昨日は水島さんから電話がありましたよ。普通に話してましたから、それはないでしょう」
「そうなんですか」
「思い出した、しばらく出張で出かけるから、連絡がつかなくなるかもしれないって言ってたな、そういえば。後のことは事務所の人に指示してあるって。事務所の若い人と、こっちの人の仕事の仕方が、いいかげんなんでしょう。私も会社に勤めていた時、今どきの若者には手を焼きましたからねえ。本社に連絡をしておけって言っても、簡単に忘れちゃうんだから。あの神経は信じられなかったな」
「でも、電話が一切つながらないんでしょう。それはちょっと、おかしくないですか」
「さあ、そこまでは私も分かりませんよっ」
茂は思わず声を荒げてしまった。明は口をつぐみ、タクシー内に重い沈黙が垂れこめた。
「ねえ、お父さん、向こうに着いても鍵がないと家に入れないでしょ。そのときはどうするの?」
春子が努めて明るい声音で聞いた。
「そうだなあ……そのときはホテルに泊まるしかないでしょ。一泊ぐらいなら、仕方がない。昔、出張で台湾に来たことあるから、泊まる場所は大体わかるし」
「そう」
会話が途切れて、再び車内は重苦しい雰囲気に包まれた。
――まったく、水島さんと連絡が取れたら、台湾まで謝罪に来させないと。こっちは500万円も払ってるのに、こんな雑な仕事をされるなんて、冗談じゃない。
だいたい、こんな大事なときに出張に行くなんてどうかしてる。何かトラブルが起きるかもしれないんだから、最後まで見届けるのが仕事ってもんじゃないか。
あの人、どっか呑気と言うか、緊張感がないんだよね。かみさんは上品な男性だって誉めてたけど、単なるお坊ちゃんじゃないのか? 仕事の仕方が甘いんだよな。会ったら締め上げてやらないと。
茂は心の中で水島に批難の言葉を浴びせかけていたが、疲れが出ていつの間にか眠ってしまった。
タクシーの運転手に起こされると、空港を出てから一時間ほど経っていた。振り返ると、後部座席の3人も眠っている。3人を起こし、料金を払い、タクシーを降りた。
降り立ったのは、大きな公園のそばだった。
「いい場所じゃないか」
茂はつぶやいた。
「ねえ、池もあるし。ボートにも乗れるみたいよ」
春子も少し明るい声で言った。
「水島さんの説明じゃ、確かこの公園の周辺だったよな」
「そうね、どの辺かしら」
茂たちが地図を見ていると、後から続々とタクシーが到着して、メンバーを降ろした。
「まず、こっちに行ってみましょう」
茂たちはスーツケースをゴロゴロと響かせながら、歩き出した。総勢28人がスーツケースを引いて歩いている光景を、道行く人は奇妙なものを見るような目つきで見ている。
それから、1時間後。
茂たちは公園の芝生に座り込んでいた。
荷物を持ちながら歩き回ったので、みんな汗だくになっている。ペットボトルを持っている者は勢いよく飲み干し、自販機を探しに行ったメンバーもいる。
「どういうことなんだ、これ」
茂の苛立ちは、またもや頂点に達していた。
「こんな写真の住宅地なんて、どこにもないじゃないか。ビルとか学校ばっかりで」
「住所を間違ったのかしら」
「そんなことないよ。パンフレットに書いてある住所は確かにここなんだから」
「印刷が間違ってるとか」
「そんな、勘弁してくれよ、もう」
茂は頭をかきむしった。首筋に次々と汗が伝っては落ちる。
「誰に連絡すりゃいいんだ……」
そこにいる誰も、何も答えられなかった。
一羽の鳥が、鳴きながら頭上の枝から飛び立った。その声が木立に高く響き渡る。
***************
その日、田部井真之介は朝から応援演説で大阪に入っていた。
田部井は自分の知人の会社に便宜を図ったとして、今年の初めごろに週刊誌でスクープ記事が報道され、野党に国会で追及される日々が続いた。
適当にごまかしておけばそれほど大きな問題にならないだろうと思っていたら、次々と新事実が出てきて、徐々にごまかしきれなくなってきた。
これ以上国会で追及されると困るので、リセットするつもりで衆議院の解散に踏み切ったのだ。
その直後に桜子が新党を立ち上げ、世論は「政権交代か?」というムードになっている。
完全に劣勢に立たされて、田部井は衆院を解散したことを死ぬほど後悔している。党内からも、自分への批判や不満が噴出して、選挙後は総裁から引きずりおろされるだろう。
――あ~、政治家になんてなるんじゃなかったな。サラリーマンでもやっとけばよかった。
政治家になってから30年以上経つが、今まで数えきれないほど、そんな後悔に苛まれてきた。総理大臣になったら消えてなくなるかと思ったが、そうでもない。
演説で漢字を読み間違えたり、記者の質問に的外れな答えを返したりすると、国民からバカにされる。外国でも首脳陣が集まった会議では、官僚が用意したペーパーを読み上げるぐらいで、自分で考えて発言することなどほとんどできない。
そのたびに、「自分は政治家に向いてない」という気持ちがムクムクと沸き起こるのだ。
しかし、他にできることもない。
神輿で担ぎ上げられても、降ろされても、流されるまま生きていくしかないのだ。
田部井はやりきれない想いを押し殺して、若手議員を褒めたたえた。
大阪の聴衆はノリがよく、冗談を飛ばすと笑ってくれるので、まだ救われる。詰めかけた聴衆に向かって何度も手を振り、選挙カーを降りた。
すると、「そ・総理、大変なことが」と秘書が真っ青な顔で立っている。
「何? どうした?」
ウグイス嬢が候補者の名前を連呼しているので、声が聞き取りづらい。顔を寄せると、秘書が耳打ちした。
「先ほど、外務省に台湾の交流協会から電話があって……」
「え? 何? 何だって?」と聞き返すと、秘書は声を張り上げた。
「だから、大勢の日本人が、台湾で詐欺に遭ったんですっ」
ちょうどウグイス嬢が静かになったタイミングだったので、周りにいた支援者やマスコミに聞こえてしまった。
一瞬、その場は水を打ったようになった。
「え? 台湾で詐欺って……どういうこと?」
「ハイ、外務省に台湾の交流協会から電話があって、台湾に住むことになっていた日本人が現地に来てみたら、その家がなかったと。協会で調べてみたところ、確かにそんな家は存在しないとわかりまして。今、交流協会には120人ぐらいの日本人が来ているそうなんです」
「120人? そんなに多くの日本人が台湾に住むってこと? どういうこと、それ」
「それが分からずに確認中なんです。しかも、そういう日本人がどんどん協会に来ているという話で」
「総理っ」
そこに別の秘書が駆け寄ってきた。
「何?」
「今、外務省にシンガポールの大使館から電話があって、シンガポールに住むはずだった日本人が、現地に行ってみたらその家がないので、途方に暮れていると」
「シンガポール? 何人ぐらい?」
「それが……100人ぐらいだと」
田部井は絶句した。
その様子を、マスコミのカメラがすかさずとらえる。




