10月 火風 ①
その日は夏のように日差しが強く、選挙カーの上にいる京子は眩しくて目をしかめた。汗をかいているのは、緊張のためなのか、暑さのためなのか分からない。
衆議院議員選挙の公示日、京子は青梅駅前のロータリーに止めた選挙カーの上に立っていた。
選挙カーの看板には、「望みの党 桂木京子」と、オレンジの下地に白い字で書いてある。
京子はオフホワイトのスーツに、「本人」と書かれたオレンジ色のたすきをかけていた。
――大丈夫、練習したんだから。
何度言い聞かせても、体の震えは止まらない。ここまで緊張したのは、生まれて初めてだ。
「さあ、いくわよ」
トレードマークのオレンジ色のスーツを着た桜子が、にこやかに京子の背中を叩く。
「大丈夫。うまく話せなくても、私がカバーするから」
京子は頷くのに精いっぱいだった。
桜子はマイクを持ち、ロータリーに集まった支援者や道行く人に向かって第一声を上げた。
「みなさん、おはようございます! 望みの党の代表、小谷桜子です」
よく通る、高い声。みんなの視線が一斉にこちらに向く。テレビカメラも、観衆に紛れて何台もこちらに向けられている。
「今日が、衆院選の告示日、2週間の選挙のスタートです。今日はいいお天気ですね。選挙の初日として、気持ちいい日になりました。でも、皆さんは気持ちよく選挙を迎えたわけじゃないですよね。
田部井総理がいきなり解散総選挙を宣言したとき、『なんで今、選挙をするの?』って、思いませんでしたか? 今の時期に、多額の税金を使って選挙をやる必要があるのかって、思いましたよね?
高齢者の方は怖くて家から出られない。そんなときに投票に行かなきゃいけないなんて、そんな国民の気持ちを無視した政治、おかしくないですか?」
桜子は笑顔で四方を向きながら、語りかける。
「やっぱり、プロの政治家はスピーチが上手だな」と京子は感心していた。
「私たちの政党、望みの党は、2週間前に急遽誕生しました。私も国政政党の準備を進めてはいましたが、こんなに急に決まるとは思っていなかった。
でも、時間がないなんて言っていられません。今、私たちがすべきなのは、田部井政権の暴走を止めること。そのためには、できることは何でもします」
桜子は10分ほど、なぜ与党を倒さないといけないのか、望みの党は何を実現させたいのかについて熱弁をふるった。京子は、頭の中で何回もスピーチの内容を繰り返した。
「大丈夫、大きく息を吸って」
隣にいた舟崎がそっと京子に声をかける。
京子は目を閉じて、大きく息を吸う。その息を、細く長く吐き出す。深呼吸を繰り返すうちに、心なしか落ち着いてきた。
桜子から、国政選挙に出てほしいと言われたのは7月の末。それから2カ月間、慌ただしく政治家になるための勉強をしてきた。
とはいえ、まったくの準備不足で、本当は議員になれる状態になどなっていない。
それでも舟崎は、
「議員になってから勉強をしていけば何とかなりますよ。元々政治家の秘書をやっていたっていう人ならともかく、それ以外の人は、みんな政治のど素人からスタートするんです。そのほうが、国民目線に立てますしね」
と何度も京子を励ました。
桜子が国政政党である望みの党を発足させてから、「政権交代が起きるんじゃないか」と、国中で期待感が高まっている。
この流れに乗らないわけにはいかない。
桜子を始め、党全体が政権奪取に向けて盛り上がっていた。
「それでは、我が党の期待のホープである、皆さんもご存知ですね、奥多摩の老人ホームで体を張って高齢者を助けた介護士、桂木京子さんです!」
桜子からマイクを受け取る。観衆は、割れんばかりの拍手を桜子に送っている。
京子は大きく息を吐いてから、
「えー……」
と第一声を出した。掠れている。
足元を見下ろすと、秘書の有紀が「大丈夫!」という表情で、何度も頷いている。
「みなさん、こんにちは、桂木京子です」
舟崎と有紀から、ゆっくり、大きな声で話す特訓を受けた。
「私は奥多摩の老人ホーム、美園ホームで介護士をしていました。今年の1月、美園ホームは放火され、19名の方が亡くなりました。私は今でも、毎晩のように夢に見ます。あのとき、もっと早くに気付いていたら、もっと助けられたかもしれないって」
声が震えて、思わず目を閉じた。やはり、放火事件の夜のことを語ると、今でも胸が苦しくなる。
「その後、各地で老人ホームが放火され、8月には、都内の小学校に避難していた高齢者が、放火で34名の方が亡くなりました。
どうして、こんな事件ばかり起きるのか。高齢者を狙った事件、たくさん起きていますよね。それなのに、自由連合は何もしようとしません。
本当は私、選挙なんてしてる場合じゃないんじゃないかって思うんです。今でも、老人ホームはどこも放火されるんじゃないかって、怯えてるんですよ? それなのに、何もしようとしない」
段々、言っていることのまとまりがなくなってきた。こめかみから汗が噴き出し、頬を伝う。
「どうして、こんなことになっているのか、考えたら、世の中が本当の意味で豊かになってないからだって思うんです。
タベノミクスって言われてるけど、今の若者は全然生活に余裕がないです。私も、介護士をやっていた時は、お給料は16万円でした。
32歳でですよ? 介護士になって半年ぐらいしか経ってなかったってのもありますけど、やっぱり16万円はきついなって思いました。
でも、20年ぐらい働いてる人でも、30万円ももらえないんですよ? おかしくないですか?」
「そうだ!」とあちこちで声が上がった。党の支援者かもしれないが、「自分の話が届いてる」と思うと、少し気持ちが落ち着いてきた。
「こんなに一生懸命働いてるのに、少しも生活は豊かにならない。だから、その怒りの矛先が、高齢者に向いちゃうんじゃないかって思うんです。
だから、根本的なことを解決しなきゃいけないんです。一番、大変な仕事をしている人たちが、報われるような構造改革が必要なんです!」
そこで言葉を切ると、あちこちで拍手が起きた。
その後も夢中で話し、最後は「桂木京子をよろしくお願いいたします!」と頭を下げた。全身、汗だくになっていた。
途端に、割れんばかりの拍手が起きる。
桜子がマイクを受けとり、
「初々しくて、フレッシュな桂木京子の初陣でした。ねえ、私のようなおばさんの演説を聞くより、新鮮な感じがしませんでしたか?」
と投げかけると、観衆はどっと沸いた。
「桂木京子は、青梅にとって、日本にとって必要な人材です。皆さん、どうか応援をよろしくお願いいたします!」と桜子が締めくくると、再び拍手の嵐。
京子はあちこちに懸命に手を振って、選挙カーを降りた。
車に乗り込むと、喉がカラカラなことに気付いた。有紀が冷たいペットボトルの水を差しだす。ゴクゴク音を立てて飲み、ようやく息をつく。
「お疲れ様でした、よかったです! 私、ちょっと感動しちゃいました」
みると、有紀の目には涙が浮かんでいる。
「でも、話がめちゃくちゃになっちゃって」
「それが却ってよかったんです! 一生懸命、伝えようとしてるのが伝わってきて。立て板に水で話すよりも、すごく好感を持てましたよ」
「桂木さん、よかったですよ。若いサラリーマンや子連れの若い母親も、真剣に聞いてくれていました。やっぱり、同世代が共感できるような、力強いメッセージを伝えられる力が桂木さんにはあるんだと思います。この調子で行きましょう!」
舟崎も笑顔で健闘を労ってくれた。
選挙カーが走り出すと、有紀が「手を振って!」と指示を出した。
のんびり休んでいる暇はない。
京子は沿道にいる人に向かって、窓から身を乗り出して手を振った。




