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曇天。  作者: 凪
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6月 火影 ⑤

 その日、久美子が買い物から帰ると、リビングのソファに透が座っていた。何日ぶりに姿を見たのか、もう思い出せない。


 テーブルには空の皿が置いてある。食べ終えた皿を一階まで持って来るのは、おねだりするときだと決まっている。


「お金ちょうだい。3万円ほど」


 透は着古したTシャツとジャージに身を包み、長い髪は寝起きでボサボサのままである。

 鼻には大きな吹き出物ができ、運動も何もしないので、ぶくぶくと肥っている。久美子は、この息子に対して今でも自分が愛情を感じているのか、時々分からなくなる。


「いいけど、何に使うの?」

「東京ビッグサイトの」

「ああ」


 また? と言いかけて久美子は口をつぐんだ。

 おそらく、アニメかマンガ関係のイベントだろう。出かける時はいつも小遣いをねだる。

 透にとって、そういう場所は唯一開放感を味わえる場所なのだろう。ずっと家にこもりきりでいるよりはまだマシだと久美子は自分に言い聞かせ、いつも金を渡している。


 久美子は財布から5万円を抜いて透に渡した。


「その服、古くなってるから、新しいの買ったら?」


 透は無言で5万円を受け取り、自分の部屋へ戻ってしまった。


 久美子が食器を洗っていると、階段を下りる足音に続き、玄関のドアが閉まる音が響いた。

 時計を見ると11時を回っている。おそらく、夕方までは戻ってこないだろう。


 久美子は急に開放的な気分になった。数時間ではあっても、頭を悩ませる息子が家にいない。そういう時は、「何をしようか」とウキウキした気分になるのだ。

 まず掃除を済ませようと、掃除機を持って2階に上がった。すると、透の部屋のドアがわずかに開いていることに気づいた。


 普段は中から鍵をかけ、久美子や隆太郎が足を踏み入れないようにしている。透がいないときに部屋に入ると、ものすごい勢いで怒られるので、めったに入らないようにしていた。

 急いでいたのか、ドアをきっちり閉めるのを忘れたのだろう。


 ――ちゃんと掃除してるのかしら。ダニでもわいてたら困るし。


 久美子はそっとドアを開けた。


 部屋の中は、まさに足の踏み場もない状態になっている。

 壁にはアニメのキャラクターのポスターやポストカードがベタベタ貼られ、マンガ本やイラスト集などが机や本棚だけではなく、床にも積み重ねられている。

 テレビの前にはゲームソフトが山積みとなり、スナック菓子の袋や空のペットボトルが散乱していた。


 部屋の隅には、ホコリをかぶったバイオリンケース。それを見るたびに、胸が締めつけられる。

 すえた匂いが立ち込め、久美子は思わず顔をしかめた。


「こんなところに籠ってたら、病気になっちゃうじゃないの」


 しばらく空気でも入れ替えようと部屋に足を踏み入れた時、足元にあったマンガの山にぶつかってしまった。マンガの山は雪崩のように床に崩れ落ちた。


「いけない」


 久美子はあわてて拾い集めた。元通りにしておかないと、部屋に入ったことがバレてしまう。

 マンガの表紙は、胸が強調されていたり、下着が丸見えになっている少女が描かれている。久美子はため息をついた。


 ――いつまで、こんなのに入れ込んでいるのかしら。まさか生身の女性とは一生セックスしないまま、年老いていくわけではないでしょうね。


 久美子は、ふとベッドの下にゴミ袋が押し込んであるのに気づいた。


「ヤダ、まさか生ゴミが入ってるんじゃないでしょうね」


 引っ張り出すと、ゴミ袋は持ち手の部分をしばってあった。


 ――カビだらけの食べ物が出てきたら、どうしよう。


 恐る恐る持ち手をほどくと、中からもう一枚ゴミ袋が出てきた。

 久美子は何も考えずに、そのゴミ袋も開けてみた。


「あら、ジャンパーをこんなところに入れて」


 中には緑色のジャンパーとジーパンが入っていた。取り出してみると、ジャンパーの胸からお腹にかけて、ジーパンも太ももの辺りに赤いものがこびりついている。


 それが血液だと気づいたとき、久美子は全身に鳥肌が立った。

 しばらく息を止めて、それらを見つめていた。


***************


 隆太郎は、その日は朝から取引先と打ち合わせをしていた。

 冷凍食品のメニューに関して、なるべく国産の食材を使えないかと大手スーパーから要請を受けたのである。


「国産の食材を使うなら、やはり値段はそれなりに高くなりますな。高くなると、果たして消費者が購入するかどうか。もともと、この値段で買えるものだから消費者は手を出していたんでしょう。安全性など何も考えずにね。安かろう、悪かろうというのは当たり前の話。値段をとるか、品質をとるかの話なんですよ」


 隆太郎はスーパーの担当者二人に向かって、持論を展開していた。


「大丈夫ですよ、今の消費者はすぐに忘れますから。牛肉偽装なんて話、今はもう忘れちゃって、みんな国産と書いてあればどこのか分からない肉でも買っているでしょ? 中国産の食品は危険だってあれだけ騒いでたのに、今はみんな忘れて中国産の食品を買ってるじゃないですか。危険だって騒ぐのはブームのようなものなんですよ。一々過剰反応していたってしょうがない」


 スーパーの担当者らは顔を見合わせて、困ったような笑みを浮かべていた。


「そういうことではなく、食料自給率の観点からも、私達は国産の野菜を使った商品を目玉にして展開しようと」


 担当者が話し出したとき、隆太郎の携帯が鳴った。

「失礼」

 手に取ると、液晶画面に『自宅』と表示されている。


 無視したが、数分ごとに何度も鳴るので、同席していた部下に「しばらく頼む」と言い、スーパーの担当者らに会釈をしてから、会議室を出た。


「もしもし」


 不機嫌な声で電話に出た。


「今、会議中なんだよ。仕事の時は、急ぎでない限り電話するなって言ってあるだろ?」

 声を荒げると、久美子は

「そうなんだけど、それどころじゃないの」

 とかん高い声でわめいた。


「なんなんだよ」

 イライラしながら問うと、

「それが、それがね」

 と久美子は興奮していてまともに話をできない。


「早く話せって。もう電話切るぞ」

「ちょっと、待って。透の部屋で、見つけたの」

「何を」

「服を」


「はあ?」

「血の付いた服を」

「――なんだ、それ」


「わからない、血のついた服が隠してあって……ねえ、あなた、まさかこれって、あの子、公園での殺人事件に関係してるんじゃ。どうしよう、警察に」

「わかった、とにかく落ち着け」


 隆太郎は思わず大きな声を出してしまい、我にかえって辺りを見回した。

 声のトーンを落として、

「透は?」

 と聞いた。


「出かけてる」

「わかった。とにかく、昼休みに家に帰るから。それまで、それは元の場所に戻しとけ」

 と久美子に指示した。


 電話を切ると、隆太郎は自分の手が震えていることに気づいた。

 廊下の窓から外を見ると、雨雲が空を覆い尽くしている。予報では、大気が不安定なため午後には雨が降りだすと言っていた。


 隆太郎は自分の心にも暗雲が立ち込めていくのを感じた。

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