5月 飛び火①
定岡順二は、自分は平々凡々な人生を送る、平凡な人間だと常々思っていた。
まず、名前。とりわけ覚えやすい名前でも覚えにくい名前でもない。
「順一だっけ?」と聞かれて訂正することもあるが、「順番の順に一二番の二」といえば誰でもすぐに名前を書いてくれるので、説明では困らない。
顔もいたって普通である。目は細く、鼻は低く、とりたてて特徴のある顔ではない。
クラスではいつも「その他大勢」の一人で、顔でも勉強でもスポーツでもみんなから注目を集めた経験は一度もない。バレンタインにもらうのも、あきらかに義理チョコばかりだった。
大学は偏差値50台の学校に入り、合コンやバイトに明け暮れるという普通の大学生活を送った。
卒業後は中堅の食品会社に就職。給料はそこそこで、可もなく不可もない。
一人暮らしを始めたときに選んだのも、家賃5万円台の普通のアパートである。
加えて、今までつきあってきたのは、どこにでもいるような女ばかりだった。
何から何まで普通で、個性のかけらもない人生だとしばしば落ち込むこともあった。
そして、三人兄弟の次男である。兄の一博ほど親に期待されてはいないし、弟の裕三ほど親に甘えたわけでもない。
そのうえ、親は小さな印刷会社を経営している。
大企業の経営者でもなければ、とびぬけた技量をもつ職人というわけでもない。中小規模の出版社から依頼されたものを刷る、とくに特徴のない印刷会社である。
――俺は、すべてがそこそこのまま終わる人生なんだろうな。
あきらめにも似た感情で、そう思っていた。
あの日が来るまでは――。
その日、勤務中に一博から電話がかかってきた。
「順二、いいか、落ち着いて聞けよ」
そう話す一博の声は、今まで聞いていたこともないほど上ずっていた。ただならぬ様子に順二は息を止めて聞き耳を立てた。
「さっき、警察から電話がかかってきたんだ。親父とお袋とばあちゃんが、山梨で見つかったって……車の中で練炭をたいて、心中を図ったって」
そこまでの記憶はあるが、その後一博が何を話し、自分はどう答えたのか、まったく覚えていない。
ただ、道端に止めたトラックから荷物が次々と下ろされている光景だけは、なぜか記憶に残っている。そのトラックの赤が、不気味なほど鮮やかに映ったのである。
斎場には、裕三の泣き声が響き渡っていた。
3つ並べられた棺の前で、裕三はもう1時間も泣いている。
涙を誘われた親戚が裕三の肩を抱き、なぐさめの言葉をかけても、裕三は一向に泣きやまない。やがて親戚もなだめるのを諦めて、別室に用意してある通夜ふるまいを食べに行ってしまった。
「じゃあ、元気出せよ」
「俺に何かできることあったら、いつでも連絡くれ」
中学校のときのクラスメイト二人が、順二に声をかけ、去っていった。
どこから聞きつけたのか、何年も会ってない旧友が次から次へと通夜に駆けつけた。
みな気の毒そうな顔をし、順二をなぐさめ、励ましてくれる。なかには、好奇心満々でなぜ三人が心中を図ったのかを根掘り葉掘り聞いてくる無礼な輩もいた。
順二は友人が帰るとどっと気疲れし、斎場の外にあるベンチに腰かけ、煙草を取り出した。警察で三人の遺体を見た時はさすがにショックで泣き伏したが、時間がたつにつれ冷静になってきた。
「なんだ、ここにいたのか」
一博が順二の姿を見つけ、隣に腰をおろした。
「裕三は甘やかされて育ったから、しょうがないな」
そう言いながら、一博も煙草を取り出して火をつけた。
「なんで教えてくれなかったんだよ。ばあちゃんの痴呆がひどくなってるって」
順二はつぶやくような声で聞いた。
「親父もお袋も、お前と裕三には言うなって言ってたんだよ。心配かけたくないからって。それに、聞いたところで、何もできないだろ?」
「そんなことないよ。休みの日に帰って来て、介護を手伝うぐらい、できたのに」
「ばあちゃんのシモの世話、できるか? 親父もお袋も、相当参ってたぞ」
「まあ、それは厳しいかもしれないけれど……老人ホームの費用を負担するとかさ」
「お前にわずかなお金をもらっても、どうにかなる話じゃないんだよ。特養は空き待ちなんだから。有料老人ホームじゃ高すぎて、ずっと払っていくのはムリだし」
「ヘルパーは頼めなかったの?」
「頼もうとしたんだけど、それもダメだった。放火の事件で老人ホームから戻ってきた年寄りが大勢いて、手が回らないって言われてさ」
「そうか……」
順二はそれ以上何も聞けなかった。
「まあ、気にすんな。オレも昼間に徘徊するばあちゃんを探すのに疲れてたしさ。限界だったんだよ」
一博は細く煙草の煙を吐いた。
「経理の溝口さんから、会社もかなり厳しいって聞いたけど……大丈夫か?」
「まあ、親父も最近はタダ働き同然だったからな。溝口さんも米村さんも加納さんも、みんな高齢で今さら再就職なんてできないから、親父はクビ切れなかったんだよ。俺らの給料を削って社員の給料を払うしかなくってさ」
「じゃあ、会社はどうすんの」
「オレが後を継いでも、厳しいのは変わりないからなあ。畳むしかないんだろうな」
一博は光を失った目でぼんやりと夜空を見つめている。その横顔にはしわが目立ち、白髪もかなり増えている。正月に会った時から数カ月で一気に老けこんだように見える。
「俺も、この歳になって再就職って言っても、難しいんだろうな。どうなるんかなあ」
一博の吐く煙が、やわらかな夜風にかき消される。風の底には、初夏のみずみずしい香りが含まれていた。
「俺に何かできることがあったら」
「いいよ。お前は自分の心配だけしろ。お前に何かあっても、俺にはもう何もできないし」
順二は黙り込んだ。確かに、自分は無力である。一博の家族を支えてあげられるほどの金銭的な余裕などない。
「借金も残ってるし、もしかしたら家を売ることになるかも。それを聞いたら、裕三はショック受けるよな」
一博は短くなった煙草を揉み消しながらつぶやいた。
「ねえ、かずちゃん、ちょっと来てくれる」
叔母が呼びに来たので、一博は「はい」と立ち上がると、会場に戻ってしまった。消えきらなかった灰皿の煙草から一筋の煙が立ちのぼる。
順二は煙を目で追っていた。
――明日、親父もお袋も焼かれるんだな。
そう思うと、急に涙がこみあげてきた。しばらく、流れる涙をぬぐいもせず、順二は煙草を吸っていた。




