3月 埋み火 ⑨
その日、京子は大吾の店に寄ることにした。
さすがに、事務所の話を相談もしないで進めるわけにはいかない。
大吾の勤めている店は西荻窪にある。
西荻窪駅で降り、商店街の一角にあるイタリア料理の店に着くと、店の前に並べられた椅子には既に客が4人座り、順番を待っていた。4人とも若い女性で、みなおしゃべりに興じている。
――相変わらず混んでるな。狭い店だから、すぐいっぱいになっちゃうんだよね。
京子は店の外から中の様子を伺った――大吾の姿は見えない。
奥の調理場にいるのだろうと、京子は行列の最後に立って待つことにした。
「ねえ、大吾君、今日は遅番だって言ってたよね」
ふと、隣に座っている二人の会話が耳に飛び込んだ。
「うん。だからラストオーダーまで粘ってさ、その後終わるの待って、カラオケに行こうよ」
「るみは克也君狙いでしょ」
「まあね。大吾君は優に任せるよ」
「大吾君ね、最近彼女とうまくいってないんだって」
京子は思わず息を止めた。
「年上の彼女だっけ」
「そうそう。なんかね、その彼女がこの間の放火事件に巻き込まれたんだって」
「えっ、何それ」
「奥多摩だったかな。老人ホームでいっぱい死んでたでしょ?」
「あー、あったあった」
「彼女がそこで働いていて、ケガしちゃったんだって。そのときは、毎日彼女のところに通って、ご飯作ってあげてたんだって」
「ウソォ、優しすぎるぅ」
「ホントだよね。でね、なんかね、今、介護の仕事がないんだって。それで、落ち着いてから探せばって言ってるのに、彼女が話を聞いてくれなくて、すっごい遠い場所に通おうとするんだって。それでケンカになるって言ってた」
「ふうん。大吾君は、その彼女のことを思って、言ってんのにねえ」
「ねえ。ってか、バカじゃないの、その彼女」
京子は、爪先がジンとしびれるような感覚に襲われた。
――なんなの、この子たち。
京子はチラリと横目で隣の女の子達を見た。
どうやら、優というのは右側に座っている、茶髪で毛先がカールしている女の子らしい。
コンパクトを取り出し、しきりに髪やまつげの先をいじっている。今時の女の子のメイクに、今時のファッション。まだ20代前半かもしれない。
コンパクトを見ながら、そわそわと順番を待つ女の子の顔は、恋をしている女の子特有の輝きに満ちている。
「優、チャンスじゃんよお」
隣の友人も、鏡を見てメイクを直している。
「そうかな、やっぱ。今日はね、勝負下着はいてきちゃった」
「え~、やる気満々じゃん。頑張ってよお」
京子は思わず目を閉じた。
――なんで、大吾は私のことを、こんな子に話したんだろ。
動悸が激しくなり、呼吸が荒くなる。
――口が堅いと思っていたのに、こんな子に、私のことをペラペラ話してたなんて。しかも、私の知らないところで、こんな子と遊んでるなんて!
京子は列を離れ、駅に向かって歩き出した。
――私の仕事のこと、なんであんな子に話すの? 介護の仕事をすることの、どこがバカみたいなのよっ。大吾はあんな子と一緒に私のことを笑っていたわけ?
目頭が熱くなり、涙がにじむ。
――うまくいってないって、話すなんて。他の子にそういうのを話すってことは、もううちらの仲は終わりってことじゃないの。あの子の気を引きたくて、そんな話をしてるとか? ……ああ、もうどうでもいいんだ、私のことなんて。
京子は指先で涙を拭った。
――私から、別れを言おう。フラれるなんて、嫌。別れても安藤さんがいるし、一人になるわけじゃない、きっと。
***************
「はあ? 事務所?」
大吾はパスタをフォークに巻きつけたまま、京子の顔をまじまじと見た。
三月最後の休日、京子は大吾と会い、オーガニックレストランで夕飯を食べていた。
大吾のアパートの近くにあるその店は、素材を厳選し、産地直送の野菜や魚を使った料理がウリになっていた。オープンしてまだ一カ月ほどだというが、こじんまりした店内は満席になっている。
大吾から、「うちの近くによさそうな店ができたから、食べに行こうよ」と誘われ、断る理由もないので、荻窪まで出てきた。
会えば、大吾の店の前で会った女の子の話をしないわけにはいかないので、正直気が進まなかった。だが、いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。
今までも、大吾は客に好かれることが度々あった。
京子が店で大吾と話しているときに、鋭い視線を投げかけてくる女の子もいたし、ひんぱんにプレゼントをくれる女の子も、店が終わるまで待っている〝出待ち〟をする女の子もいた。
大吾はそのつど隠さずに教えてくれるので、浮気はしていないのだろうと京子は思っていた。
だが、この間の優という女の子の話は聞いていない。
――お店が終わった後、二人でどっかに行ったのかも。
京子はすっかり憂鬱になっていた。
会話も弾ます、食事の味も分からない。
大吾は京子の様子に気づかないのか、店の新メニューの話や、「この間、変なお客さんが来てさ」と客の話をしていた。京子は適当に相槌を打っていた。
「なんだ、食欲ないの?」
京子がパスタにほとんど手をつけないのを見て、大吾は軽く顔をしかめた。
「言ってくれれば、別の日にしたのに」
こんな時でも食べることしか考えていない大吾に、京子は苛立ちを感じていた。
「ちょっと最近、忙しかったから」
「忙しいって、本の取材?」
「それもあるけど、テレビの取材もあったし」
「――引き受けたんだ、その仕事」
大吾の声のトーンが低くなる。
「うん。大吾が心配しているようなことはなかったよ。プロデューサーの人も、カメラマンさんもいい人だったし、ちゃんと取材協力費ももらえるし」
「俺が心配してるのはそういうことじゃなくて、安藤とかいうやつのことだよ。京子を利用しようとしてるから、あんまり近づくなって言ってんの」
「だから、そんな悪いこと考えてる人じゃないって。この間は、一緒に事務所開かないかって誘ってくれたし」
「はあ? 事務所?」
大吾はワインを二口三口飲んだ後、ようやく次の言葉を発した。
「話がよく見えないんだけど」
「だから、安藤さんが一緒に事務所を開かないかって誘ってくれたの。この間のテレビ撮影もうまくいって、そのときのプロデューサーの人から、これからもちょくちょく声をかけるって言われて。これからそういう取材も増えるかもしれないから、窓口をつくっておいたほうがいいんじゃないかって言われたんだよね」
「窓口ったって、有名人みたいに毎日テレビに出るわけでもないんでしょ? 本が売れるとは限らないし、事務所をつくるほどのことでもないじゃん。その安藤とかいう人、明らかに京子を狙ってるじゃんよ」
大吾は、見たことがないぐらい怖い顔になっている。本気で怒ったのだと気づいた。同時に、まだ嫉妬してくれるのだと、内心嬉しくなった。
「だから、安藤さんは私のためを思って言ってくれてるだけだから。事務所をつくったら、取材の申し込みをしやすいでしょ? それだけ。変な意味じゃないと思うよ」
「誰が京子に連絡するんだよ? そんなの、本が売れてから考えることで、今考えるなんておかしくない? なんかホントに、安藤とかいうやつ、キモいんだけど」
「キモいって……」
「じゃあ、なんで京子にそこまで執着するわけ? テレビの仕事を紹介したと思ったら、今度は事務所を一緒に開こうなんて。何年も一緒に仕事をした仲ならわかるよ。でも、そいつとはまだ数回しか会ってないんでしょ? ちょっと話の展開が急すぎるでしょ。京子のこと、何も知らないのに」
「そんなことないよ。私のこと、よく分かってくれるもん。取材でも、私がうまくしゃべれないと、こういうことですかって、ちゃんと言いたいことを代弁してくれるんだから」
「なんで、そいつのことばっか庇うの?」
「庇ってるわけじゃないけど」
「だって、俺の言うこと、全然聞かないじゃん」
「なんで、大吾の言うことを聞かなくちゃいけないの? 大吾だって、私のこと、何もわかろうとしてくれないじゃない」
「あの、お客様」
店員に声をかけられ、二人は我に帰った。気がつくと、まわりの客の視線が集中している。知らず知らず、声が大きくなっていたらしい。
店員が申し訳なさそうに、
「すみません、もう少し小さい声でお願いできませんか。周りのお客様に迷惑なので」
と言った。
「すみません」
二人は何度も頭を下げ、しばらく黙って冷めたパスタを黙々と口に運んだ。




