五、シンの王手
早朝、マイは人の気配に目を覚ました。ほとんど独り暮らし同然の生活なので、これは珍しいことだ。
思い当たってすぐに寝台を飛び出した。
「お母さん!?」
リビングには予想通りの姿があった。三ヶ月ぶりに見る母だった。相変わらず、成人した娘を持つようには到底見えない、若々しくも妖艶な美女だ。マイの心は浮き立った。いつも颯爽としている、自慢の母だ。
「お帰りなさい、お母さん! 元気そうでよかった」
そしてもうひとり、ソファに座す母の隣には知らない顔もいた。きわめて友好的な笑顔を向けてくる、四十がらみの男性だった。母の手土産だろうか。
「おはよう、マイ。何か変わったことはあった? ああ、お茶を淹れてくれないかしら」
「うん、ちょっと待ってね」
立ち竈で湯を沸かし、三人分の緑茶を用意しながら報告をする。変わったことなら、大いにあった。
「あのね、姉さんが結婚したんだって。手紙が来てたのよ」
「ふうん。そうね、もうそんな年齢だったわね」
「手紙、そこの棚にあるわ。読む?」
「あとでいいわ」
姉の話題は広がりを見せることなく、そこで終わった。すかさずマイは次の話題を繰り出した。
「先週から恒例のキノコ祭りが始まったのよ。誰彼構わずキノコを投げつける機会なんてそうそうないから、お母さんもぜひ――」
「あの空しい地域振興活動? 毎年毎年、一部の地元民しか参加しないのによくやるわよね」
「こ、今年はいろいろ新たな試みがあるの、スタンプラリーとか」
「町内会の出す案って、どうしていつもそう古めかしくて陳腐なのかしら。熱意は買うけど、もっと工夫すればいいのにね。町内会長はまともな意見に耳を貸さないけど」
しまった、町内会長は母と不倶戴天の間柄だった。マイは咳払いして気を取り直した。
「そういえば、三丁目のカーボンさんが出家したのよ。急に道心を起こしたんですって」
「ああ、あそこの奥さんは昔からそういう性質があったものね」
「そうなの?」
「何を喋ってもお経に聞こえるのよ、退屈で眠くなるの」
「……それはさておき、ポチにはもう会った? また一段と愛らしくなったでしょう、あの子」
「寝てたわ。器用な寝方をするのね、あのヤギ」
「ポチっていろいろすごいの、並の人間より知能が高いんじゃないかと思うことも多いし」
母娘が会話をするかたわら、男性はただひたすらに微笑みながら無言で座っている。ひょっとすると置物かもしれないとマイは思いはじめた。母は、持ってきたはいいが手渡し忘れているお土産のように、彼の存在を忘れているのではなかろうか。
「マイ、あなた自身の話題は何かないの?」
「盗賊を捕まえたわ、つい先日」
関心を向けてもらえるのが嬉しいマイは、主人の誉め言葉を待つ飼い犬さながらの忠実な態度で答えた。
「なかなかやるじゃない。あなた、いくつになったんだったかしら」
「十六よ」
「しっかりと育ったものね。いい娘を授かったわ。それに、マイ、ほんの数か月でまた綺麗になった」
「そう、かしら」
マイは曖昧に笑った。特にこの母に言われると不思議な心境になる。
「せっかく母譲りの外見なんだから、出し惜しみせずもっと見せびらかせばいいのに。そっけない制服だからって武器にならないわけじゃないのよ」
ビー学院の制服は動きやすさを最重視している。男女の別のない前合わせの上衣、膝丈ズボン、ブーツという出で立ちだ。全身が黒でまとめられている。
「たとえばこのあたり、もっと若者らしく開放的に……」
その胸元の合わせ部分を母に広げられそうになり、マイは後ずさった。
「いいいいいいいのよお母さん! とりあえず必要性を感じていないから! 武器は剣ひとつで足りるから!」
「あらそう? つまらないわね」
「制服、校則守る、あるべき姿デース。好み、人それぞれ、いいと思いマース」
突如、置物が口をひらいた。片言だった。マイは驚愕した。
「そうそう、紹介しておかなくてはね。この男性は――」
その日、顔を合わせるなりシンは問うてきた。
「どうした」
何が、とマイはひとまず首を傾げる。何かあったのか、でもなく、どうかしたのか、でもないシンの断定的な言葉が少しおかしかった。質問のようでいて、これは質問ではない。説明しろという意味なのだ。ゆえに、しらばっくれても効果はない。
「言え、マイ」
「新しいお父さんができた」
シンは顔色ひとつ変えなかった。ある程度は予想していたのかもしれない。図太いマイの心を乱すものは、数が限られているからだ。
「そうか」
「うん。十三人目。いい人そうだった。というかカタコトだった。外国の人みたい。わたしの苗字、チュトヴルテチュカコンヴィチュニークシェスチャンになるかも。マイ・マイコ・チュトヴルテチュカコンベベベベベ……噛んだ」
「おまえ、今晩はうちに来い。泊まれ。俺も帰る」
端的な指示にマイは吹き出した。シンの飾らない気遣いはくすぐったい。
「週末でもないのに外泊はだめでしょう、寮生なんだから。大丈夫、家に帰るよ。“お父さん”が新しい娘と話したいって言ってたし。それでね」
シンの喉元のあたりを見て続ける。いつから彼はマイをさしおいて、これほど身長を伸ばしたのだったか。憎たらしい。
「たぶん今日は、てんで相手にならないだろうから、帰るね。ついでにしばらくは合同稽古は中止させてほしいの。家族サービスしたいし」
「家族サービスの使いかたが変だぞ」
「そうなの? まあいいや、そういうことで」
「待て」
腕をしっかり掴まれた。マイはにっちもさっちもいかなくなった。
「あらあらまあまあ、どうかなさって? シンさん」
「無駄だ」
「え?」
つい彼の顔を直視し、マイは慌てて目をそらした。逃げを許さない瞳の威力は、それでいてマイを溺れるほど甘やかすことさえ、容易にできる。マイがもっとも恐れているもののひとつだ。
「そらすな、マイ。俺をちゃんと見ろ」
「い、嫌」
あくまで抵抗すると、シンは強引な手に出た。膂力の差にものを言わせ、
「あだだだ! 痛い痛い」
両手でマイの顔を振り向かせたのだ。
「マイ。おまえは女だ」
「教えてくれてありがとう! でも、気を悪くしないでね、もう知ってるわっ」
しかたがないのでマイは身体ごとシンに向き直った。不承不承の降伏を見て取ったか、顔は解放してもらえた。
「そうじゃなくて。女だってことを自分で受け入れたからって、マイが母親みたいになるわけじゃないんだ」
マイはとっさに耳をふさいだ。その手を掴まれて無理矢理に耳から遠ざけられた。死にものぐるいでシンを蹴った。シンはびくともしなかった。
「何を言ってるのかわかんないよ、シン。毒キノコでも食べたの? キノコごときに脳を浸食されるような貧弱な子じゃなかったのに」
「本当はわかってるんだろう? だって、俺のことは何だって知ってるはずだ。マイ。俺はおまえを」
「うるさいうるさい! 聞きたくないの、言わないで!」
「――愛してるんだよ」
マイは最後の手段として頭突きを選んだ。非常にうまくいった。好機を逃さず、大急ぎで飛びすさった。
「ばーかばーか! ざまーみろ! シンなんかバナナの皮に滑って転んじゃえ! せいぜい後頭部を打たないように気をつけなさいよ!」
怯えて蒼白になっても捨て台詞は忘れない。マイは奥歯をかみしめて、全速力で逃げた。
シンは追わなかった。
母は昔から、奔放な人だった。
マイが生まれる前からそうだったと町の噂は教えてくれるし、長じてのちは自分の目でしかと見てきた。それについて負の感想を持ったことはない。母は美しく、引く手あまたで、自由で、自由で、自由だった。
特別な人なのだ。特別な母の娘として生まれた以上、普通の育てられかたをしていないからといって、不満に思うのはおかしい気がした。
父のことは知らない。おそらく父もマイの存在を知らない。聞いた限りの情報によれば、父は修行のために少しの間ビーグル町に逗留していた剣士だったそうだ。シンの父も認めるほどの腕前だったらしい。
マイは本当に心から母を愛しているが、あの女性にはなれない、と思い続けてきた。崇拝者から嬉々として差し出される物質的な愛と献身を、次から次に摘んでいく彼女の手管は、真似ようとして真似られるものでもない。おそらく人としての種類が生まれながらに異なっているのだろう。マイはそう理解している。マイはどちらかというと自らを恃むところが厚いほうだった。
そしていつからか、骨への志向が強くなった。
形而上への傾倒というよりは肉体性の否定の発露として、マイは本気で骨だけの存在になりたいと願っていた。ひところは異常に肉と血を忌み嫌いもした。膨らんでいく身体を、女になる身体を、ひたすら憎悪した。
肉がつき脂肪がつき鈍ったこの身は、やがて否応なしに満ち満つ時を迎える。月の引力に従順な重い枷が、泥寧に沈む血肉の器に精神を閉じ込め縛り付けるだろう。それを思うと吐き気がした。確か十四のころだ。父親だった人の数が二桁に届いたのも同じくらいのときだった。
髪を短く切り男の子の服を着て男の子の言葉を使った時期もある。けれど自分が求めているのはそういうことではないと気づいてからは、すっぱりやめた。少年になりたかったことはない。言うなれば、男性でも女性でもない無性への憧憬のほうが大きかった。
わからなくなりつつある。いったいシンがマイをどうしたいと思っているのか。マイのことを誰よりよく理解しているはずの彼が、なぜ望まない方向を示唆して強引に連れていこうとするのか。
マイにはここを出ていくつもりがない。
この町には家があるからだ。短い間ながらも、かつては母と姉と自分が暮らしていた、家族の唯一の象徴がここにあるからだ。マイが家を離れれば、完全にマイたちの縁は絶ちきられてしまうに違いない。三人の帰る場所が失われる。
こんなことはとても口に出せない。誰もがマイの懸念を憫笑するだろう。すでに幻想の家族は滅んでいると、マイがすがりついている家は廃墟にすぎないのだと、たしなめるだろう。
シンだけはそれをしない。何があってもシンはマイの味方なのだと、だから確信していられた。それなのに、最近のシンはわからない。マイの拠り所を知っている彼の、本当に望んでいることが理解できない。
彼に関して意思疎通を諦めるのは、屈辱にほかならないことだ。何もかも知っているからこそマイとシンは互いに背中を預けられた。自負でもありライフラインでもあるその絆は、マイの自我の形成にすら大きな役割を果たしてきた。シンを信じられないならマイはマイでいられないのだ。
だから逃げざるを得なかった。気づかぬふりを続けるしかなかった。
シンはそれを望んでいない。距離感を見極めながら、追いつめすぎないように、しかし決して逃がさないように、少しずつマイを窮地に囲い込んできた。そして今日、たった今、シンは一種の王手をかけた。
ひどいと思った。シンはひどい。なぜマイを楽にしてくれないのか。あるいは、楽にしようとするのか。
変えてほしくない。あと少しで構わない、このままでいさせてほしい。
シンに置いて行かれるのもついていくのも怖い。決断を迫られることそれ自体が、マイの足元をおぼつかなくさせていた。
「もうやだぁ」
つい弱音がもれた。悔しい。マイ・マイコ・パラフィンは繰り言を口に出さないはずだ。今の自分は自分でない。悔しい。
とぼとぼ帰路を歩んでいると、道ばたでスリングショットの練習に励む、鬼の形相の少年を見かけた。怒濤の勢いで繰り出される石弾は、離れた位置に立つ樹木の幹に書かれた印へ、ものの見事に的中し続けている。マイは失意も忘れて目を丸くした。
「あれ、マイコちゃん」
「すごい。いきなり上達したのね」
「ははは」
ルタ少年は酷薄そうに笑った。荒んでいるという意味で、妙に大人びた笑いだった。
「僕は理解したんだよ、いろいろなことを。頼れるのは自分だけだとか、世の中には殺意を持って接するべき人間がいるということとか」
マイは近づくのを中断した。彼のまとう空気が実に不穏だ。
「ま、まあルタ、大人になったのね」
「おかげさまでね……僕に足りなかったのは明確な、やる気、だったんだ」
「や、殺る気?」
「うん。優しさは闘志に代わるものじゃないのさ」
「そうね、そこに気づけて何よりだわ。師として鼻が高いわーなんて、うふふ、ふー……」
マイはそのままルタの視界から素早く退散した。昨日の盗賊はどうなったか、などとは決して訊くまい。彼は世界の未知なる一面にふれ、成長したのだ。それでよい。
シンはマイを追わなかった。
急ぎすぎたか、と思った。しかしすぐにそうではないと思い直した。
どうせ、潮時だった。
シンは明らかに限界だったが、マイも本当はわかっているはずだった。ここが両者の正念場だ。
――骨になりたい。それもただの骨ではだめなの。強靭で、繊細で、硬質で、滑らかで、鋭利で、丸みがあって、攻撃的で、温和な白い骨色をした骨でなくてはならないんだわ。
マイがそう言い出したときのことを覚えている。突拍子もない思いつきのようでいて、彼女の憂悶を突き詰めた結果が端的な言葉に現れていることも伝わってきた。
次第にシンにもわかってきた。
マイが忌み嫌い怖れているのは社会通念上の〈女〉ではない。もっと原始的な、動物的な意味での〈女〉だ。なおかつ、母親のような女になることを最も怖がっているのだ。
もっと自分勝手に振る舞えばいいのにと感じることは多々あった。子どもだったのだ、子どものようにだだをこねて反抗して何が悪い。現にマイの姉はとことん母親を厭い疎み嫌悪し、まったく逆の方向へ自らのアイデンティティを見いだした。そして母親から物理的な疎遠を保つ道を選んだ。
あれが普通の反応だと思う。彼女たちの母親は聖母からかけ離れた強烈な存在だ。娘の人生を波乱に巻き込まずにはいられないだろう。万人がそう案じていた。
あいにくマイは普通の女ではない。どこから見ても尋常でない。そこが彼女の厄介な、愛すべき点だ。言うに事欠いて骨になりたいなどと口走りだしたころには、シンも充分すぎるほどそれを悟っていた。
彼女の懊悩を完全に理解することはできない。その必要もないだろう。
ただ、早く気づけ、と思う。
あの女には俺しかありえない。
シンのただひとりがマイであるように、マイにはシンがいるべきなのだ。
マイの場合は因果応報とも言える。孤高の立場に酔って満足していた少年を、まんまとたぶらかし外界に引きずり出した罪は重い。責任はとってもらわねばなるまい。
「逃がすかよ」
勝負はこれからだ。
マイとシンの勝負ではない。
シンがマイを手放さずにいるための戦いだ。マイがシンを選ぶための戦いなのだ。