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最後の近衛 ――前進命令、未だ解除されず。


一 敗走


帝国軍は昼前に崩れた。

街道は北へ逃げる兵で埋まっていた。銃を捨てた者がいた。靴を片方なくした者がいた。負傷者を荷車に放り込んで、馬がいないので自分で曳いている者がいた。道の脇で大尉が「止まれ! 止まらんか!」と怒鳴っていたが、誰も止まらなかった。そのうち大尉も走り出した。

南の空で、また何かが破裂した。

新生軍である。率いているのは転生者だ。この男が持ち込んだ銃は、弾を込め直さずに続けて撃てる。本人は一里先から魔法を落とし、弾の通らない見えない壁を身にまとっている。火打ち石の銃と青銅の大砲では勝負にならなかった。三月で帝国の半分が消えた。

悪い男ではない、という話だった。降った兵は殺さない。捕虜には日に二度飯が出る。戦を終わらせるために戦っているのだと、当人は言っているらしい。帝国軍の天幕でも、近頃は「もう降りたほうがいい」と声に出して言う者が増えていた。

それでも皇帝は逃げていた。

供回りは二十騎ほどに減っていた。皇帝は肥えた小男で、馬は上手かった。逃げる兵の流れを割って北へ駆けていくと、街道の先に、流れとは逆を向いて並んでいる一団があった。

古参近衛である。

八百人ほどいた。若くて四十の手前、五十過ぎも珍しくない。腹の出た者がいて、禿げた者がいて、古傷で首の回らない者がいた。熊毛の帽子は半分がた毛が抜けていた。先帝の代から宮殿の門に立ってきた連中で、ここ十年の仕事はおもに式典だった。

脇を逃げていく若い兵が叫んだ。

「爺さん! そっちは敵だぞ!」

「知ってる!」

皇帝が手綱を引いた。

「近衛!」

八百の踵が鳴った。揃ってはいなかった。膝の悪い者が半拍遅れた。

皇帝は振り返って南を見た。煙が近かった。

「前進しろ! 敵を一歩も通すな!」

隊長が敬礼した。白髪頭の、痩せた男だった。

「承知しました、陛下」

皇帝は頷き、何か言い足そうとして口を開け、やめて、馬の腹を蹴った。二十騎が続いた。土埃が残った。

「行っちまったな」

「急いでんだろ」

「俺らも急ぐか?」

「逆方向にな」

隊長が剣を抜いた。

「楽隊!」

太鼓が鳴り、笛が続き、ラッパが少し外して入った。二十年前の観兵式で使っていた行進曲だった。逃げてくる何千という兵が道の両側に割れた。その真ん中を、近衛だけが南へ歩いていった。


二 横隊


街道は、川と沼地のあいだの低い土手の上を通っている。幅は、横に二百人並べばいっぱいになる。近衛はそこで止まった。

南に新生軍が見えた。灰色の上着の列が地平まで続いていた。中央に馬上の男が一人、供もつけずに前へ出ていた。

隊長は遠眼鏡を覗いた。列の前に、車輪のついた妙な銃が据えてあった。

「あれが噂の新式か」

「昨日、第三連隊の一個大隊が五分で消えました」と副官が言った。

「五分か」

「ええ」

「昼飯前に終わるな」

「我々がですか?」

「他に誰がいる」

隊長は遠眼鏡を畳んだ。

「横隊」

八百人が四列に開いた。肩と肩をつけ、銃を立てた。百年前から変わらない並び方だった。

新生軍の側でざわめきが起きた。

「……横隊?」

「正気か」

「あの爺さんたち、新式を知らんのか」

知っていた。昨日、その五分で消えた大隊の死体を片づけたのは近衛だった。死体は横隊の形のまま倒れていた。

ほかの並び方を知らないのだった。

「第一列! 構え!」

「狙え!」

「撃て!」

二百挺が一度に火を噴いた。煙が土手を這った。弾は半分が届かず、残りの半分は外れ、そのまた残りが馬上の男に集まった。

雹が鐘を叩くような音がした。男の一間手前で、鉛がぜんぶ潰れて落ちた。

「おお、当たったぞ」

「全部弾かれたぞ」

「命中は命中だろ」

「そういう問題か?」

「装填!」

込め棒で弾を突き込む音が二百、ばらばらに鳴った。手の震える爺さんが一人、火薬を半分こぼして軍曹に怒鳴られた。

二度目も弾かれた。

馬上の男が片手を上げた。

土手の右のほうから光が落ちてきた。音はあとから来た。泥が降った。帽子が降った。中身の入ったままの帽子もあった。ひしゃげたラッパが隊長の足もとに転がってきた。

耳鳴りの中で、倒れていた者が起き上がった。起き上がらない者もいた。隊長は、三十人ぶんほど空いた穴を見た。

「間隔を詰めろ!」

穴の両側の兵が、一歩ずつ横へ寄った。死んだ者をまたいだ。列はまた一本の線になった。少し短くなっていた。

「第一列! 構え!」

馬上の男は、初めて顔をしかめた。


三 クソジジイども


新生軍の参謀が馬を寄せた。

「新式を並べましょう。五分で済みます」

「待て」と転生者は言った。

昨日の大隊は逃げなかったから、ああなった。あれをもう一度やりたくはなかった。たいていの連隊は、魔法を一つ落とせば崩れる。崩れたところで降伏を呼びかければ、死人は少なくて済む。

彼はもう一つ落とした。列を詰めて、撃ち返してきた。三つ目も同じだった。

昼を過ぎて、彼は新式の連発銃を一挺だけ前に出させた。十数えるあいだだけ撃たせ、止めさせ、待った。列を詰めて、撃ち返してきた。彼はまた撃たせた。

布を裂くような音がして、第一列が端から順に倒れた。近衛は倒れたぶんだけ詰め、撃ち返した。撃ち返すあいだに次が倒れた。小便を漏らした者がいた。漏らしたまま込め棒を突いていた。皇帝の悪口を言う者がいた。

「あの豚、年金を二度も削りやがって」

「三度だ」

鼓手が撃たれた。太鼓が転がり、隣の兵が拾った。

「俺、これ叩けねえぞ!」

「鳴りゃいい!」

「何の曲だ!」

「知らん!」

どん、どどん、どん。

「下手くそ!」

「うるせえ!」

列のあちこちで笑い声が上がった。

隊長の馬が首を撃たれて倒れた。隊長は鐙から足を抜くのに少し手間取り、腰をさすりながら歩いて列の前へ出た。

振り返って、兵を見た。爺さんばかりだった。泥と血と火薬の煤で顔が黒かった。半分は肩で息をしていた。

「クソジジイども!!」

「「「おう!!」」」

隊長は少し笑った。

「……いや! 名誉ある古参近衛兵!!」

「「「おう!!」」」

「向こうの銃を見たか!」

「「「見た!!」」」

「怖えか!」

「怖えよ!」

「帰りてえ!」

「当たり前だ馬鹿!」

「臆病者は後退しろ!!」

誰も動かなかった。風が煙を流した。

後ろのほうで誰かが言った。

「隊長が下がれ!」

どっと笑った。

「俺が一番臆病なんだよ!」

隊長は剣を振った。

「前進!!」

「「「前進ーー!!」」」

叩けない男の太鼓が鳴った。笛は一本だけ残っていた。

爺さんたちは歩き出した。走らなかった。走ると列が乱れるし、そもそも走れない者が多かった。一歩、また一歩、肩をつけたまま、布を裂く音のほうへ歩いていった。

新式の射手が、引き金から指を離して上官の顔を見た。

近衛は五十歩進んで、止まって、撃った。

また弾かれた。


四 伝令


日が西に回ったころ、北から騎馬が一騎、土手を駆けてきた。馬は泡を吹いていた。乗っているのは二十代の若い少尉で、顔に血の気がなかった。土手に転がっているものを避けながら来たからだ。

列は三百人ほどになっていた。

「隊長!」

「陛下は」

「国境に到達されました! ご無事です!」

列から小さく息が漏れた。

「逃げ切ったか」

「足だけは速えからな、陛下」

「馬の足だろ」

少し笑った。

隊長は訊いた。

「陛下から、何かご命令は」

「……いえ。到達された、とだけ」

「そうか」

隊長は北を見た。街道は空だった。逃げる兵ももういなかった。しばらく見ていた。

少尉は待った。馬の向きを変えさせ、退路になる道を目で測った。負傷者を何人運べるか、数えはじめていた。

隊長は南に向き直った。

「再装填!!」

「……は?」

「再装填だ」

「ですが、陛下はもう国境を――」

隊長は振り向いた。

「陛下のご命令は何だった」

少尉は黙った。知っていた。朝、供回りの中にいたのだ。

「……敵を、一歩も通すな、と」

「そうだ」

「しかし」

「後退命令は」

「……ありません」

「なら何をしてる。下がれ。邪魔だ」

少尉は口を開けて、閉じた。敬礼をした。隊長は見ていなかった。

馬が北へ遠ざかった。軍曹がその背中に怒鳴った。

「陛下に年金のこと言っとけ!」


五 効かない銃


転生者は二十六だった。この世界に来て九年になる。

その九年、彼に向かって二度撃った敵はほとんどいなかった。たいていは一度撃ち、弾かれるのを見て、銃を置いた。それでいいと彼は思っていた。そのための壁だった。

壁には傷ひとつなかった。魔力は半分も減っていない。目の前の三百人を消すのは、手を一度振れば済む。朝からずっとそうだった。

彼は手を振った。土手が抉れて、煙が上がった。

煙が晴れた。

「間隔を詰めろ」

爺さんたちが横へ寄った。

「装填」

かちゃかちゃと込め棒が鳴った。

「構え」

銃口が上がった。揃っていなかった。それでも全部こちらを向いていた。

「撃て!」

雹の音がした。鉛が足もとに落ちた。朝からの分が積もって、馬の蹄のまわりは灰色の砂利を敷いたようになっていた。

彼は叫んだ。

「やめろ!!」

向こうで声がした。

「何か言ってるぞ!」

「聞こえん!」

「やめろってよ!」

「聞こえてんじゃねえか!」

「お前らの銃は俺には効かない! 分かってるだろ!」

「効いてねえらしいぞ!」

「見りゃ分かる!」

「じゃあどうすんだ!」

軍曹が答えた。

「もう一発撃つ!」

「了解!」

装填。構え。撃て。雹の音。

参謀が馬を寄せてきた。閣下、お顔の色が、と言った。転生者は答えなかった。手綱を握った手が白くなっていた。

迂回しましょう、と参謀は言った。

「皇帝はもう国境の向こうです。あれに構う理由がありません」

「放っておいても撃ってくるだろ」

「は」

「背中に向けて、撃ってくるだろ。届かなくても」

参謀は土手を見た。否定しなかった。


六 残弾


日が傾いた。

列は六十人ほどになっていた。楽隊はいなかった。太鼓は皮が破れて転がっていた。旗手が倒れ、隣が旗を拾い、その男も倒れ、三人目が拾った。

弾薬箱を覗いた伍長が怒鳴った。

「残弾! あと一斉射!」

「よっしゃ!」

「何がよっしゃなんだよ」

「知らん!」

最後の列ができた。四列はもう無理で、一列だった。立てない者は隣の肩を借りた。肩を貸したほうも、反対側の肩を借りていた。隊長は左腕を上着の合わせに突っ込んでいた。肘から先が利かなくなっていた。

「装填!」

六十本の込め棒が鳴った。今度は誰もこぼさなかった。

「構え!」

転生者が手を上げた。顔は紙の色だった。

「頼む」と彼は言った。

「もうやめてくれ」

隊長に聞こえたかどうかは分からない。耳は昼の一発目でほとんど駄目になっていた。

「狙え!」

銃口が揃った。この日、初めて揃った。

「撃てえええ!!」

雹の音がした。

一発も届かなかった。

転生者は手を振り下ろした。


七 装填


煙はなかなか流れなかった。

音がなくなった。新生軍の兵は、命じられないまま、少しずつ土手に上がってきた。足の置き場を選ばなければならなかった。

一人だけ立っていた。

爺さんだった。六十に近かった。どうして残ったのかは、本人にも分からないだろう。

帽子はなく、禿げた頭に泥がついていた。銃は空だった。

足もとに旗が落ちていた。

爺さんはそれを見下ろし、銃を置き、左手で旗竿を拾った。時間がかかった。拾うと、三歩横へ動いた。列の右端だった場所である。そこに竿を突き、踵を揃え、前を向いた。

「……何してんだ、あれ」と若い兵が言った。誰も答えなかった。

転生者が馬を降りて、歩いてきた。

爺さんは彼を見なかった。南を見ていた。

「戦いは終わった」

返事はなかった。

「もう誰もいない」

返事はなかった。

「……何を待ってるんだ」

爺さんは前を向いたまま答えた。兵営で上官に答える声だった。

「命令であります」

「何の」

少し間があった。

「装填」

「撃て」のあとには「装填」が来る。四十年そうだった。それがまだ来ていなかった。

転生者はしばらくそこにいた。それから、何も言わずに馬のところへ戻った。

誰も爺さんを撃たなかった。縛りもしなかった。新生軍は土手を下り、少し離れたところに天幕を張った。その晩は、誰も大きな声を出さなかった。

風が出た。旗がはためいた。金糸の鷲は半分ほつれていた。

日が沈んだ。

次の命令は、誰からも来なかった。

爺さんは立っていた。息をしていたのかどうか、離れた天幕からは見えなかった。

旗だけが、暗くなっていく土手の上で鳴っていた。




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