19.5閑話 お鼻にキスは予告して
その日、競馬場は朝から妙な熱気に包まれていた。
人が多い。
いや、多いだけじゃない。
ざわめきが浮ついている。
歓声のひとつひとつが妙に高い。
空気そのものが落ち着かない。
私はパドックへ向かう途中で耳をぴくりと動かした。
――なにこれ?
隣を歩くチモシーは無口だった。
いつも通りの顔をしているけれど、手綱を持つ手の置き方が少しだけ違う。
硬い。
私は首をわずかに揺らした。
大丈夫だよ。
そう伝わればいいと思った。
その時、遠くから実況の声が響いた。
『帝国優駿です! 三歳世代の頂点を決める牡馬クラシック第二冠! 本日は歴史的瞬間を見届けようと、これほどの観衆が詰めかけました!』
帝国優駿。
人間はダービーとも呼ぶらしい。
でも、正直よく分からない。
GⅠはGⅠだ。
強い馬が集まって、みんな必死で走って、その中で一番前でゴールした馬が勝つ。
――ダービーってそんなにすごいの?
私がそう思っている間にも、人間たちは勝手に盛り上がっていた。
「牝馬がダービーだぞ」
「正気か?」
「春の月を勝ったからって、こっちは別だ」
「四十五年ぶりだぞ、牝馬の挑戦なんて」
「しかもチモシーだ」
「青の皇帝の主戦が今度は娘に乗るってか」
ふぅん。
なるほど。
なんか大変そう。
でも、私にできることは一つしかない。
走ることだ。
◇
スタンドでは、早くも熱が上がっていた。
「おい、あれがアクアファーナか」
「思ったより小さいな」
「牝馬だからな……いや、それにしてもか」
「本当に勝てると思うか?」
「春の月は勝ったぞ」
「だがダービーは別だろ」
年配の男が腕を組んだまま唸る。
「ダービーは、特別だ」
「何がそんなに違うんだよ」
若い男が聞き返す。
「一生に一度だからだ」
その一言に、周りが少しだけ静かになった。
「三歳でしか走れねぇ。やり直しはきかねぇ」
「馬にとっても人間にとっても、ここは特別なんだよ」
別の男が続ける。
「勝てば一生ダービー馬だ」
「ただのGⅠ馬より、ダービー馬のほうが響くこともある」
「それくらい、この一戦は重い」
「まして牝馬だぞ」
「勝ったら化け物だ」
誰かがぼそりと呟く。
「いや……もう春の月を勝ってる時点で、だいぶ化け物だろ」
小さく笑いが起きた。
だが、その笑いもすぐに緊張に飲まれてしまう。
検量室の前でも人間たちの空気は重かった。
厩舎関係者たちが言葉少なに行き交う。
新聞記者は帳面を抱え、記録係は忙しなくペンを走らせる。
「チモシー、顔色悪くないか」
「あいつが一番分かってるんだろ」
「勝てるかどうかじゃない」
「勝った時に何が起きるかをだ」
「青の皇帝の時以来か」
「……いや」
「あの時とも違う」
「今回は娘だからな」
その隅には、ひときわ年老いた調教師の姿もあった。
かつて青の皇帝インペラトーレを育てた名伯楽。
白髪混じりの髪に深い皺、普段は怒鳴り声ばかり響かせる頑固者だ。
その老人が、低く呟く。
「インペラトーレを知ってる人間ほど、平気じゃいられんよ」
パドックにアクアファーナが現れた瞬間、どよめきが広がった。
青毛の牝馬。
深い青の瞳。
落ち着き払った歩き方。
「……堂々としてるな」
「牝馬って、もっとピリつくもんじゃないのか?」
「いや、あれは……」
「分かってない顔してるだけかもしれん」
観客席の端で白髪の男が目を細めた。
「ダービーの意味を分かってなくても勝てる馬はいる」
「だが、分かってないままここに立てる馬はもっとやばい」
スタートが近づくにつれ、競馬場全体が張り詰めていく。
『各馬、ゲートインを進めます! アクアファーナ、落ち着いています! 牝馬とは思えぬ堂々たる気配!』
「落ち着いてるな……」
「いや、あれチモシーのほうが緊張してないか?」
「分かる」
「なんだあの顔」
「腹括ってる顔だ」
老騎手あがりの男が腕を組む。
「ダービーで平常心なんざ、誰にも無理だ」
「乗るのが初めてじゃなくてもな」
◇
スタート。
歓声が弾けた。
『揃ったスタート! 帝国優駿、始まりました!』
前へ行く馬。
位置を取る馬。
抑える馬。
その中でアクアファーナは中団に収まった。
「……あの位置か」
「悪くない」
「いや、牝馬で囲まれてるのはきついぞ」
「でも折り合ってる」
「チモシー、無理させてねぇな」
向こう正面。
前が流れ、馬群が縦に伸びる。
『先頭、やや速いペース! 各馬、淀みなく流れます!』
「速いな」
「ダービーだからって飛ばしすぎだろ」
「いや、これくらいならまだ……」
「後ろが死ぬぞ」
双眼鏡を構えた男が低く言った。
「アクアファーナ、下げたな」
「え?」
「脚を使わせないようにしてる」
「チモシーの判断か、馬の判断かは知らんが……あれは賢い」
3コーナー。
空気が変わる。
観客席の誰もが息を呑んだ。
『各馬、勝負どころへ! 外から進出を開始する馬もいます!』
「来るぞ」
「牝馬、まだ動かない」
「遅いんじゃないか?」
「いや……待ってる」
「何を?」
「開くのをだ」
その瞬間。
馬群が歪んだ。
「詰まった!」
「終わっ……いや?」
「空いた!?」
外の馬がわずかにバランスを崩し、その一瞬の綻びに青毛が滑り込む。
『アクアファーナだ! アクアファーナ、進路を見つけた! 青毛の牝馬が来る!』
「うそだろ」
「今の、見えたのか?」
「馬が、自分で行ったぞ」
「チモシー、ほとんど押してねぇ!」
スタンドが揺れた。
直線。
歓声は、もはや音の壁だった。
『先頭争いは激しい! しかし外からアクアファーナ! アクアファーナが来た!』
「牝馬が来るぞ!」
「伸びる!」
「止まらねぇ!」
「うわ、相手も強いぞ!」
「差せるか!?」
「いや、並ぶ……並んだ!」
実況の声が裏返る。
『四十五年ぶりに牝馬が帝国優駿を?! アクアファーナが! アクアファーナが! 父である青の皇帝の主戦騎手を背に今、頂点へ――!』
ゴール板。
一瞬、世界が止まる。
そして。
『勝ったあああああっ!! アクアファーナ、勝ちました! 牝馬による帝国優駿制覇! 四十五年ぶりの歴史的快挙です!!』
競馬場が爆発した。
悲鳴みたいな歓声。
泣き出す女。
帽子を放り投げる男。
両手で顔を覆う老人。
「マジかよ……」
「牝馬でダービー?」
「見たか? 今の?」
「チモシー……やりやがった」
「違ぇよ」
「あの馬がやったんだ」
さっきの老調教師が、震える声で言った。
「……インペラトーレの娘、か」
◇
検量室前は、ひどい騒ぎだった。
「四十五年ぶりだぞ!」
「史上何頭目だ!?」
「チモシー! チモシーどこだ!」
「コメント取れ!」
人の波の向こうに、さっきの老調教師の姿があった。
かつてインペラトーレを育てた名伯楽そして今はアクアファーナの調教師。
いや彼だからこそ、その目を真っ赤にしていた。
帽子を握りしめたまま、ぽつりと呟く。
「……あの皇帝の血がここまで来たか」
声が震えていた。
「先生」
若い厩務員が呼びかける。
老人は乱暴に目元をぬぐった。
「うるせぇ、泣いてねぇよ」
「泣いてるじゃないですか」
「うるせぇっつってんだ!」
そう怒鳴ったくせに声にはまるで威厳がなかった。
◇
ウイニングランを終え、アクアファーナが引き上げてくる。
汗に濡れた青毛。
落ち着いた呼吸。
いつもとあまり変わらない顔。
まるで自分がどれだけとんでもないことをしたのか分かっていないみたいだった。
チモシーが下りる。
周囲がどっと押し寄せる。
その隙を縫って、老調教師がふらふらと近づいた。
「せ、先生?!」
「ちょ、レース後はいくらアクア相手でも危ないですよ!」
誰かが止める間もなかった。
老人はアクアファーナの前まで来るとしばらく何も言わなかった。
ただ、その青い瞳を見上げていた。
「……お前さん」
かすれた声。
「ほんとに、やりやがったなぁ……」
次の瞬間。
老人は、そっとアクアファーナの鼻先に口づけた。
周囲は、泣く者と笑う者が入り混じって、妙にぐしゃぐしゃな空気になっていた。
◇
私は、ぽかんとしていた。
――えっ。
今。
お鼻にキスされたんですけど?!
いや、待って。
なにそれ。
そういうやつ?
ダービーって勝つとそうなるの?
私は反射的に耳をぺたんと伏せた。
イヤーん!
乙女の鼻を断りもなく奪うなんて!
いくらいつも砂糖をこっそり山ほどくれるおじいちゃん先生でも、それとこれとは話が別だよ!
でも、周囲の人間たちは泣いたり笑ったり忙しくて、それどころじゃないらしい。
チモシーだけが少しだけ困ったように笑って、私の首筋を軽く叩いた。
「……お前、本当に分かってないだろ」
うーん?
みんながこんな顔をするなら。
泣いたり笑ったり、意味の分からないキスまでしてくるなら。
たぶん。
ダービーって、すごかったんだろう。
◇
その夜。
厩舎で飼葉を食べながら私はぼんやり考えていた。
ダービーってすごいの?
と朝は思っていたけれど、たぶんすごかった。
だって人間たち、ずっと騒いでたし。
チモシーは変に静かだったし。
おじいちゃん先生は泣いてたし。
最後にお鼻にキスまでされたし。
……うん。
やっぱり、ちょっとすごかったのかもしれない。
でも。
次に何かあっても。
お鼻にキスは、できれば事前に予告してほしい。
※完結まで毎日投稿です。
本日、2話投稿、1話目。




