19.クラシック
その日、競馬場には最初から妙な空気があった。
春の大一番。
一般的には牡馬クラシックと呼ばれるG1レースの場の一冠目。
三歳世代の頂点を決める舞台。
そこに、一頭だけ。
牝馬が混じっていた。
「……正気か?」
「牝馬だぞ?」
「話題作りにしても、無茶だろ」
スタンドのあちこちで、そんな声が漏れている。
私は、パドックを歩いていた。
他の馬たちは、どれもいかにも“主役”という風格だった。
筋肉の張り。
歩様の大きさ。
目の据わり方。
――うん。
全員、強い。
そして私は牝馬にしては大きいもののちょっとばかり小さい。
前より成長したんだけどなぁ……でも、なるほど。
これが、場違い二回目か。
◇
チモシーは、私の横を歩きながら、いつもより無口だった。
手綱を持つ手に、余計な力は入っていない。
歩調も、呼吸も、いつも通り。
でも、重心の置き方だけが、ほんの少しだけ違う。
――緊張してる。
私は、それが分かってしまった。
だから、首を少しだけ振った。
大丈夫。
走れるよ。
◇
ゲート入り。
周囲の馬たちの気配が、さっきより近い。
呼吸。
筋肉のきしみ。
地面を掻く音。
……でかいな、みんな。
私は、ちょっとだけ笑いたくなった。
スタート。
一斉に、前に出る。
私は、出遅れもしなければ、飛び出しもしなかった。
ただ、流れに入る。
八番手。
内寄り。
周囲は、牡馬だらけ。
――囲まれてるね。
でも、不思議と怖くはなかった。
一コーナーを回る頃には、すでにペースが速いことが分かった。
先頭の馬が、ちょっと飛ばしすぎている。
それに釣られて、二番手、三番手も前に出る。
馬群が、全体的に引き伸ばされる。
……あ。
これ、後ろのが脚が終わるな。
私は、脚をほんの少しだけ緩めた。
隊列の中で、わずかに位置を下げる。
十番手。
チモシーは、何も言わなかった。
ただ、私の首の動きに合わせて、重心を預けてくる。
――分かってるね。
向こう正面。
何頭か、すでに怪しい。
息が荒い。
首が上下している。
脚の出が、ほんの少しだけ鈍い。
……うん。
壊れないでね。
◇
「牝馬、後ろすぎね?」
「もう無理だろ」
スタンドから、そんな声が落ちてくる。
私は、聞いていないふりをした。
だって、まだ何も始まってない。
◇
3コーナー。
前の馬たちが、いよいよ苦しくなり始める。
外に出ようとして、膨れる。
内に入ろうとして、詰まる。
馬群が、ぐちゃっと歪んだ。
――来た。
一瞬、内が空きそうになる。
でも、そこは危ない。
入れたとしても、すぐ閉じる。
私は、待った。
◇
「詰まったぞ」
「終わったろ、あれ」
誰かが言う。
◇
次の瞬間。
外の一頭が、脚を取られた。
ほんの一瞬、バランスを崩しただけ。
でも、それで十分だった。
――はい、空きました。
私は、そこに脚を置いた。
風が変わる。
景色が、横に流れ始める。
あ、これ。
勝てる。
直線。
前にいた馬たちの背中が、
一頭、また一頭と、近づいてくる。
追われている馬の匂いが、濃い。
……うん、脚はある。
残り三百。
外から、一頭、ものすごい勢いで来る。
……あれ、強い。
たぶん、世代最強クラス。
一瞬だけ、私は迷った。
ここで、全部出す?
でも、やめた。
まだ、ここじゃない。
チモシーが、軽く鞭を振るう。
それだけでいい。
私は、伸びる。
ゴール前。
並ぶ。
ほんの少し、前に出る。
ゴール。
クビ差。
◇
一瞬、競馬場が静まった。
それから、遅れて、どよめきが爆発した。
「……え?」
「牝馬……?」
「今の、何?」
◇
引き上げてくる途中。
チモシーの呼吸が、少しだけ荒かった。
「……勝ったな」
声が、低い。
私は、耳を後ろに倒す。
――うん。勝った。
◇
まずは一つ目。
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