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馬肉になりたくないんです! ~転生、異世界で強制競走馬生活ですか?!~  作者: ゆうらり薄暮


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19/42

17.お父さんの騎手



 その男が厩舎に来たのは、昼下がりだった。


 派手な格好はしていない。

 鎧でもなければ、目立つ外套もない。

 ただ、歩き方が軽い。


「……あれ、誰だ?」


 誰かが小声で言った。


「どこかで見たことあるな」

「騎手か?」


 男は厩舎の前で足を止め、ぐるりと中を見回した。

 馬を見る視線だった。

 人を見る視線じゃない。


「……あ」


 アクアファーナが、わずかに首を上げた。


 それに気づいたのは、

 偶然、彼女の前に立っていた俺だけだった。


 耳が、前を向く。

 ほんの一瞬。

 でも、確かに。


 今まで見たことのない反応だった。


「……お前?」


 思わず、声が漏れる。


 アクアファーナは、男を見ていた。

 柵の向こう。

 少し離れた位置にいる、その人間を。


 男は、こちらに気づくと軽く会釈した。


「失礼。殿下に言われてね。ちょっと、馬を見せてもらっていい?」


 声は低く、落ち着いている。

 命令じゃない。

 頼み事だ。


「殿下の御用命なら、好きに見てくれ」

 

 男は、一頭ずつ、ゆっくり見ていった。

 触らない。

 急がない。


 馬の前に立ち、

 呼吸を見て、

 脚を見て、

 目を見る。


 ――視線が止まった。


 アクアファーナの前で。


「……この子」


 男が、そう言った。


 “この子”


 今まで誰もそう呼ばなかった。


「名前は?」


「アクアファーナですよ」


 そう答えると、男は小さく頷いた。


「いい名だ」


 それだけ。


 なのに。


 アクアファーナが一歩、前に出た。


 柵ぎりぎりまで。


 自分から近づくなんて初めてだった。


「……おい」


 思わず、制止しそうになる。


 でも、男は動じない。


 ゆっくりと手を上げ、

 馬の額より少し低い位置で止めた。


 触れない。

 近づきすぎない。


 待っている。


 アクアファーナは、鼻先を伸ばした。


 ――くん。


 空気を嗅ぐ。


 それから。


 小さく、鼻を鳴らした。


 明らかに違う反応だった。


「……楽しそうだな」


 誰かが、ぽつりと言った。


 確かにそう見えた。


 尻尾がわずかに揺れている。

 首の力が抜けている。


 男がようやく口を開いた。


「この馬。……速くなる」


 断定だった。


「いや、まだ分からないだろ」


 誰かが言う。


 男は笑わない。


「分かるよ。“今は”走ってないだけだ」


 その言葉に、

 アクアファーナの耳が、ぴくりと動いた。


 まるで、同意するみたいに。


「失礼」

 

 男は、こちらを振り返る。

 

「チモシーだ。インペラトーレの、主戦をやっていた」


 空気が、変わった。


「……あの?」

「“青の皇帝”の?」


 チモシーは、肩をすくめた。


「昔の話だよ。でも――」


 もう一度、アクアファーナを見る。


「似てる。目が、そっくりだ」


 その瞬間。


 アクアファーナが、小さく前脚を踏み出した。


 ――ぱふ。


 軽い音。


 それだけで、胸がざわつく。


「……お前」


 思わず、呟いた。


 今まで一度も人間に向かって自分から動いたことがなかったのに。


 チモシーは、静かに言った。


「この子に少しだけ乗らせてくれないか。ああ、全力じゃない。ちょっとだけ走らせてみたくてさ」


 厩舎長が迷う。


「……様子見だけだぞ」


「分かってる」


 鞍を置き、

 鐙を上げ、

 静かに跨る。


 その瞬間。


 アクアファーナの背中がすっと、軽くなった。


 まるで――

 ずっと、これを待っていたみたいに。


「……行こうか」


 チモシーが、囁く。


 アクアファーナは、歩いた。


 いや。


 風を選んだ。


 軽い。

 速い。

 でも、暴走じゃない。


 走りたい方向がはっきりしている。


「……なんだ、これ」


 誰かが息を呑む。


 数十歩。

 それだけで分かった。


 この二人は、噛み合っている。


 止まったとき、

 チモシーは小さく笑った。


「やっと会えたな」


 誰にも聞こえない声。


 アクアファーナは、青い目を細めた。



 やっと、会えたね。

 ――――私を勝たせてくれる人

 

※完結まで毎日投稿です。

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