16.調教の始まり
最初に思ったのは――楽な馬だ、ということだった。
育成牧場から移ってきた牝馬は、拍子抜けするほど素直だった。
引けばついてくる。
止まれば止まる。
首を振らない。蹴らない。噛まない。
「手がかからないな」
思わず、そう口に出した。
厩舎に入ったばかりの若馬は、たいてい落ち着かない。
特に牝馬は、神経質なことが多い。
知らない匂い。
知らない音。
知らない人間。
どれか一つで、暴れる理由には十分だ。
だが、この牝馬は違った。
馬房に入れても静かに周囲を見るだけ。
鳴きもしない。
壁を蹴ることもない。
まるで――
ここに来ることを最初から知っていたみたいに。
「……アクアファーナ、だったか」
名を呼ぶと耳がぴくりと動いた。
それだけだ。
振り向きもしない。
けれど、聞いている。
名前を「自分に向けられた音」だと、分かっている。
「賢いな」
そう言うと隣の厩務員が笑った。
「賢いってより、無欲なんじゃないか?」
「若馬らしさがないよな」
確かにそうだ。
怖がりもしないが期待もしない。
褒めても調子に乗らない。
叱っても萎縮しない。
感情の振れ幅が小さすぎる。
鞍付けも拍子抜けだった。
最初の腹帯。
ぴくりともしない。
「……え?」
二本目を締めてもじっとしている。
普通はここで一度、体をこわばらせる。
跳ねる。
暴れる。
なのに。
「……気にしないのか?」
アクアファーナは、ただ立っていた。
首を少し下げ呼吸を整えながら。
受け入れている。
最初から、そうなると分かっていたみたいに。
それが一番、気持ち悪かった。
初めて人を乗せた日も同じだ。
騎手が体重をかけた瞬間、
わずかに背中の筋肉が動いた。
――それだけ。
「……おい」
思わず、声が出る。
「今、何かしたか?」
「いや?」
騎手が首を傾げる。
「普通に乗っただけだけど」
アクアファーナは、じっと前を見ている。
指示を待つように。
「歩け、そうそういい子だ」
腹を蹴れば歩け、手綱を引けば止まれ。
合図を教え、二度三度繰り返すだけで簡単な指示にあっさり応えた。
完璧だ。
完璧すぎる。
「楽だなぁ」
騎手が言う。
「正直、拍子抜けだ」
周囲も同意する。
「怪我もしなさそうだし」
「変な癖も出ない」
「調教、すぐ終わりそうだな」
その言葉になぜか胸がざわついた。
終わりそう。
それは――
この馬の“限界”をもう見たという意味だから。
だが、どこにも限界は見えない。
走らせても同じだ。
速くしろと言えば速くなる。
抑えろと言えば抑える。
息が乱れない。
脚運びが崩れない。
「……これ、どこまで行くんだ?」
誰かがぽつりと呟いた。
その夜、記録帳に書いた評価は短かった。
気性:非常に穏やか
馴致:問題なし
調教:順調
特記事項:なし
――なし。
本当に何もない。
なのに。
厩舎を見回る途中、ふと足を止めた。
アクアファーナの馬房の前だ。
彼女は、藁の上で静かに立っていた。
こちらを見るでもなく眠るでもなく。
ただ、そこにいる。
無駄な動きが一切ない。
「……なあ」
独り言みたいに言った。
「お前さ」
返事はない。
それでも耳がわずかにこちらを向いた。
聞いている。
「どこまで……分かってるんだ?」
答えは、もちろん返ってこない。
けれど。
その青い目は、
まだ何も見せていないとはっきり言っていた。
◇
――これからが本番だよね、お父さん?
※完結まで毎日投稿です。




