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ななしの恋  作者: じじ
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 許せなかったのです。

 ヤツギさんの姿をした男は、ヤツギさんの顔で笑い、ヤツギさんの声で話すので御座います。ヤツギさんは消えてしまいました。耐えられなかったのです。一秒たりとも、あの男を見ていたくありませんでした。

 私が此処にいる意味は、心奪われたあの虚ろな瞳は、安穏な日々は、全て失われてしまった。

 だから、私は屋敷を去ることにしたので御座います。


 それは、息の白く凍る朝の事で御座いました。

「今日限りで辞めてしまうというのは本当かい」

 客間の掃除を仰せつかり暖炉の灰をかきだしていますと、そう後ろから声を掛けれたので御座います。ふり向くとヤツギさんの顔をした男が立っていました。

 本当です、と答えると男はそうかと呟いて少し淋しそうに笑いました。見たことのない顔で御座いました。

 そんな凡庸な人間らしい表情をヤツギさんはしません。

 私が黙っていると、男は勝手に話し始めました。何を言っていたかは忘れてしまいました。でも、どの言葉もヤツギさんのものではなかったということはよく覚えております。

「今までご苦労だったね」

 男は最後にそう言いました。気づくと私は手に持った火かき棒を強く握りしめていました。


 その顔で笑うな。あの人はそんな笑い方はしない。

 その声で話すな。あの人はそんな言葉を言ったりしない。


 ✿     ✿     ✿     ✿


「だから殺したのですか」

 男が訊ねると、女は笑みを消した。

「殺した?あの男はどこかに行ってしまいました。でも、ヤツギさんが戻ってきてくださったのですから、そんなこと、どうでもいいことじゃ御座いませんか」

 低い声だった。女は傷んだ床板に視線を落とす。男は眉を顰めた。

「戻ってきた?」

「ええ。戻ってきたのです。あの虚ろな瞳のヤツギさんが。何にも心奪われない特別な人が。私はとても幸せなのです。ヤツギさんさえいればいいのです」

 女はいつの間にか長持を見つめていた。部屋中に漂う異臭の正体がその中に横たわっている。男はそれを知っている。だが、蓋を開ける勇気など持ち合わせていなかった。臆病なのだ。男は苦しげな表情で女を見た。

「彼だけが特別だなんてことはない。貴方にだって名前がある」

「そんなもの御座いませんわ」

「ただ忘れているだけだ」

 男は声を荒げた。

「貴方の名前は」

「忘れている?何を言っているのです?始めからないのよ。貴方も、私も、誰にも名前なんてないの。特別なのはヤツギさんだけよ」

 女は男の言葉を遮るように叫んだ。大きく見開かれた目は真っ直ぐ男を見ているというのに、男の視線と交わらない。女は笑っていた。男は唇を噛みしめていたが、悲しげな表情になると力なく項垂れた。女は長持を見ている。狭い部屋は再び沈黙に包まれた。

 鳥のさえずりが聞こえる。

 男は帽子をかぶると立ち上がり女に背を向けた。

 聞くべきことは全て聞いた。もう此処にいる意味はない。だが、男は戸口の前まで来ると立ち止まった。その物悲しげな背中も、やはり女の目には映らなかった。


                                 (了)


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