弐
それからは、毎日のように私はヤツギさんのことを見ていました。ヤツギさんは屋敷の主人でありましたが、誰とでも分け隔てなく言葉を交わされ、女中である私や同僚にもよく声をかけて下さりました。ですから、気軽に話しかける者も多う御座いました。とくに、娘たちはよく口実を見つけてはヤツギさんと話をしに行っておりました。
それは、肌寒い夜のことでした。
ヤツギさんはお酒を飲みながら月を眺めておられました。屋敷にいた娘たちはヤツギさんのお酌をしようと、縁側に集まってきておりました。先ほどまで静かだった廊下は娘たちの話し声や笑い声で賑やかになりました。私も彼女たちと、ヤツギさんを囲むように座りました。
「まぁ、まん丸いお月さんですこと」
今しがた訪れた娘が言いました。ヤツギさんは、ああそうだねぇと言ってその娘に微笑みかけました。ヤツギさんの弱々しくも可愛らしい笑みに、他の娘たちも頬を赤くして喜びました。そうした娘たちの輝くような瞳の中、ヤツギさんの虚ろな目はますます美しく見えました。
「月には何がいるんだろうね」
ふと、ヤツギさんは月を見つめたまま呟きました。それは独り言のようで御座いました。誰かに答えを求めたわけでもなく、考えていた事が口から漏れただけの。ですから、私は何も答えずにただ黙ってヤツギさんを見ておりました。
「蟹ではないのですか?」
軽薄そうな声の娘が答えました。
ヤツギさんが娘をふり向き、そうなのかい?と聞き返しておりますと、別の娘が口を開きました。違います、あれは大きな蛙で御座います、とその娘は言いました。
すると、隣に座っていた娘が、あら、兎ではなくて?と小さく首を傾げました。ヤツギさんに酌をしていた娘が、私もそう聞きましたわ、と頷きました。それから娘たちは顔を見合わせて、蟹も蛙も兎も、全然違うじゃありませんかと笑いました。そうしてどれが本当なのかしらと言い合い、どう思われますか?と娘たちは皆揃ってヤツギさんに訊ねました。
「どれも面白くていいじゃないか」
ヤツギさんは優しく微笑むと、他にはどんなのがあるんだい?とおっしゃいました。娘たちは、囚われた罪人だ、怒る馬だ、木立だ男だ女だと弾んだ声で口々にヤツギさんに話しました。
「君、君は何だと思う?」
ヤツギさんにそう声をかけられ、私は、まさか自分の番が来るだなんて思ってもみませんでしたから、すっかり焦ってしまいました。ヤツギさんを待たせてはいけません。私はようやく口早に、ただの影にしか見えませんと答えました。他に何も思いつかなかったのです。何と面白味のない答えでしょう。
ヤツギさんはつまらない答えだと思ったでしょうか?
この場の空気にそぐわぬことを言う嫌な女だと思ったでしょうか?
私は、俯いたまま顔を上げることができませんでした。ですが一向に、ヤツギさんからは何の返事もありませんでした。私が顔を上げると、相も変わらず穏やかな笑みを浮かべるヤツギさんが見えました。ヤツギさんはもう私の方を見てはいませんでした。
私は心底ほっとしました。
ヤツギさんにとって私の答えなどどうでもよかったのです。
賑わう娘たちの中、ヤツギさんは皆を見ているようで誰も見てはいませんでした。視線を宙に漂わせ、呼びかけられると、その方に向かって笑いかけるのです。
ヤツギさんは完璧でした。
ヤツギさんは、私のように失敗したりすることはありません。誰かに迷惑をかけることも、不快にさせることもありません。焦ったり、悩んだり、怒ったりすることも、誰かを嫌うこともないのです。いつも穏やかな笑みを浮かべ、優しい言葉をかけてくれるので御座います。ヤツギさんの傍にいるとき、私の心は、他の何処にいるよりも安らぎました。
ヤツギさんにとって、全てはどうでもいいことなのです。