参
私は母に叱られてばかりでした。何をしても褒められたためしがありません。
なんて出来の悪い子だ。
何故、そんな簡単なことができぬ。
お前の顔を見るだけで腹が立つ。
母はいつも不機嫌な顔をしていました。だから、私は家を出たのです。母に嫌われるのが嫌だったのです。でも、ヤツギさんは私を嫌いません。好きもしません。
ヤツギさんの傍にこそ安穏な日々があるのです。
街の可愛らしい娘たちが、私のことだけを見ていてくださいな、などと言えば相分かったと言って顔をその娘に向けてやるのです。じっと視線を娘の顔辺りに漂わせれば、娘は頬を染めて満足するのです。店へ行けば着飾った客たちが、屋敷では女中たちが、愛しているだの、自分はこんなに想っているのに不公平じゃないかだの、しなだれかかるように甘い言葉を囁きますが、ヤツギさんの心が動かされることはありません。
シマ。ユキノ。ミヨ。
ヤツギさんを訪ねて来た記者の男は繰り返しその名前を口にしては、同じ質問をしていたように思います。私がお茶をお出ししました。ヤツギさんはいつもと変わらぬ穏やかな表情で、男の話を聞いておられました。私は短い間その横顔に見惚れていました。
いつの間にやら向けられたヤツギさんの笑顔にはっと我に返り、小さく礼をして部屋を出ようとしましたところ、記者の男は三人の名前を口にすると、誰か知っている者はいないか、と私に訊ねました。
三人ともいつの間にか、いなくなった同僚の名前で御座いました。ヤツギさんはどうやら覚えておられなかったようでした。それは無理もありません。私も聞かれるまで忘れていたんですもの。記者は彼女たちは自殺したのだと言いました。なるほど、そういえばそんなこともあったような気がします。
でも、それがどうしたと言うのでしょう?
ヤツギさんにはかかわりのないことでは御座いませんか。
いくら聞いても名前も覚えていない女子のことなどヤツギさんが思い出すはずもありません。ヤツギさんには、どうでもいい人たちなのですから。
私が、名前は存じておりますが他のことは何も知りませんと答えると、記者は客間を出ていきました。それでも納得がいかない様子で、周りの者を捕まえては話を伺っておりました。私のところにも何度も来ていたように思えます。顔は覚えておりません。しばらくすると来なくなりましたから。
それもまた、どうでもいいことです。
ヤツギさんは誰の名前も呼びません。有象無象の名など覚えていないのです。
ヤツギさんは誰のものにもなりません。
だから特別なのです。




