41 大僧正の悪夢
薄暗い部屋のなかの硬い椅子、そして両手首と足首に食い込むロープの感触が、大僧正を現実の世界に引き戻した。
彼の誇りであった緋色の法衣は剥ぎ取られているのか、今のコーネリアス・ギキの身を包むのは、粗末で肌触りの悪い麻の衣だけだった。
吐く息が白く靄となり、眼の前の視界を覆い尽くす。
「ここは」
「おや、目覚めたか」
ぱたん、と何か本を閉じるような音のする方向に目を向ける。
大僧正の視線の先にいたのは、銀髪のエルフの男だった。
エルフ族の年齢を外見から推し量るのは、事実上不可能だ。老人のような姿のエルフと少女のように見えるエルフを二人並べたとしても、少女のようなエルフのほうがはるかに年上であることも珍しくない。
何しろ本人ですら年齢を大雑把にしか覚えていない事も多く、『100年は生きていない』『800年か700年くらい』『千年から先は覚えてない』などということなどザラである。
眼の前の銀髪のエルフの男も、ヒト族で言えば20代程度であろうか。若々しい肌に美しい髪、シワやシミなどのない手指は、コーネリアスが失って久しいものだ。
「では、続きだ」
「続き……?」
まるで寝起きのような、動きが極めて鈍くなった頭で必死に考える。
大僧正しかまとうことが赦されない緋色の法衣をまとい、王都近郊の地下に隠していた秘密祭壇で、ずっと待ち望んだ道標を『観測者』に捧げるはずだった。
そうすれば、何度も勇者を送り出してきた異世界と此方側の世界をつなぐ確率は、飛躍的に上げられるはずだった。
これまでは分の悪いバクチでしかなかった勇者召喚が、ほぼ確実に勇者となりうる素質を持った者を召喚できるようになる。
直接異世界へつながる次元の穴を開けるのではなく、観測者に声を届けるための術式を構築し、観測者に『希う』ことで召喚を実現する。そのための儀式の準備は滞り無く進んでいたはずだった。
観測者へのチャンネルを開くために必要となるエーテルの確保にも散々苦労した。
百八龍とかいう地下組織の暗躍のせいで、生贄となる平民たちを拉致しづらくなった。エーテル虫などという穢らわしいバケモノに頼らざる得なくなったのは痛恨の極みだが、偶然にも『異世界から転移した勇者』と融合したエーテル虫を見つけた時には、年甲斐もなく心が踊ったものだ。
「続きとは、一体何のことを……」
コーネリアスがようやく顔をあげ、眼の前に座る銀髪のエルフ男を睨みつけた。
「何のこととは随分な言い方だな。先程まであれほど誇らしげに、嬉々として話していたではないか。我が妹弟子にとっては良い講義となったのではないか?」
ティベリウスが、すぐ傍の椅子に腰掛けて帳面に凄まじい勢いで何事かを書き記している少女に目を向ける。
ほぼ無表情でじとっと大僧正を睨みつけるが、さほど興味もなさそうに帳面に目を落とす。
「では、もう一度やってみせよう。良いかな、スミレ? 精神魔法において肝要となるのは、相手の精神に同調することではない。相手の精神を自分に同調させることだ。まずはよく観察しなさい。良いかな」
菫はこくりと頷いてから、今度はまるで実験動物を観察するかのような目つきでコーネリアスへ視線を向けた。
まったく瞬きをしない目で、呼吸のタイミングすら見逃さないように、凝視と言っても差し支えない目だった。
「眼の前にいる者の感情を読み取るんだ。目の動き、呼吸の速度と呼吸の深さ。表情、顔色、指の動きに足の動き、すべてをよく観察する。さぁ、この男の感情は読み取れるか?」
「……お、おそ……おそ、恐れ、と、あ、あっ、焦り……ふ、不安、こう、こ、こう後悔……」
「素晴らしい。流石は私の妹弟子だ。師エアリアも喜ばれることだろう。そのとおり。相手の感情を正確に、細かく読み取るんだ。呼吸を読み、相手の吸気で取り込まれるエーテルに己のエーテルを練り込ませる。思考と感情を誘導するんだ。己のうちにあるエーテル脈を自覚するだけでなく、相手のエーテル脈も感じ取れ」
徐々にコーネリアスの意識が混濁し始める。
シンカー僧院において数多くの経典を学び、経蔵、律蔵、法蔵を修めた最高位の僧となるには、明晰な頭脳と卓越した記憶力、そして何よりも優れた思考能力がなければならない。
断じて精神魔法などの支配を受ける事などあってはならないはずだ。
「私は幼い頃から僧として国のため、世界の安寧のために学び続けた。そう、勇者召喚術はあくまで世界の安寧のため。サンサルバシオンなどという野蛮な国の領土的野心に対抗するため、自衛の術として不可欠なものだ。国を守る事が正義であるとするならば、勇者召喚術は正義であるべきだ」
コーネリアスの思考を声に出していたのは、コーネリアス自身ではなくティベリウスであった。だが、コーネリアスはその事に気づかない。
自分の頭の中でだけ考えているはずの思考が、何者かの口から語られたとしても、その語られる内容が思考と一字一句変わらないのであれば、それは自分の言葉として脳が認識してしまう。
現に、コーネリアスの口は声を出さずにぱくぱくと動き続けているが、その動きはティベリウスの言葉に完全に同期している。
「空間座標を特定するための魔法陣に、大量のエーテルを一気に注ぐことでオーバーフローを起こさせる。これで『座標』が壊れ上位世界にいる『観測者』へのパスが開かれる。そのうえで観測者に対して道標の生体エーテルを捧げることで、道標と類似したプラーナ波を持つ者を召喚対象として特定しうる。これはシンカー僧院の古い経典に記されていた奥義に通ずる、私だけが知りうる秘術中の秘術。断じて他国に知られるわけにはいかん。断じて漏らしてはならん。僧院総本山でもこの秘術を知るものは私だけなはずだ……」
菫はティベリウスの口から語られる言葉を、驚異的な速度で一字一句逃さず書き留めていく。
酩酊にも似た精神状態で、大僧正コーネリアスは古代から伝わる秘術と己が導き出した最新の召喚魔法を融合させた、最新の勇者召喚理論を隠すこともなく語り続ける。
さらに、語った相手は人類最高の叡智と言って差し支えない賢者と、その兄弟子に当たる大魔道士である。
この大魔道士と賢者の兄妹弟子が記した文書は、後にゴルドベルク王国において禁書とされ、国王の厳重な管理下に置かれることになるが、それはまた少し後の話である。




