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8-1 -エレーナ-

 涼やかな風の吹く一日だった。陽が山の端から落ち消えて、群青の帳が空を覆っている。ちらちらと輝く星々をぼうと眺めながら、エレーナは膝を抱えていた。


 半袖の軽装は、すぐにでもベッドに潜り込むためである。長袖でくるぶしまでの隠れる長さのエプロンドレスは、自室に脱ぎ散らかしたままだ。首裏まで届く髪を掻きながら、ガラスのような青い瞳を、夜空の遠くへと飛ばしていた。苛なる神経の尖りが、射る先を求めているのだが、いっこうに定まらない。代わりに舌打ちとなって出てきた。


 今日もエレーナはベルグラーヴのカーライル邸を、左へ右へと駆けまわり、べったりとした疲れがあった。サイモンの怒声に、レイチェルの小言、レヴィンの舌打ち、ひそひそとささやかれる給仕たちの陰口。耳に届くだけで、心うちのどこかが、そりそりと削られる心地がした。山やランスにいた頃には聞かなかった声である。神経を削るようで堪らない。


 殊に、ここ最近は、邸全体がヒリヒリとした感を放っているように、エレーナは覚えていた。角ばった男二人がフェリルに挨拶に来てからだろう。緊張感が深く絞り込まれていき、或る方向に進んでいる。その中の軋みが心をヤスリがけしてくるようだった。


 二人の男たちとも何度かすれ違った。厚みのある胸板。そして、かすかに鼻を擦ってくる香は――硝煙の粉っぽさを帯びていた。懐かしさが一瞬よぎったが、脂の匂はなかった。なるほどこれが兵隊というモノか、とエレーナは察した。邸の裏に設けられた倉庫には、火器がずらりと並べられていた。給仕服を着た数人が、それらの手入れをしていた。アンナの姿もそこにあった。


 カーライル家の資金で、森の中に捨てられていた砦の改修をしている。エレーナもその現場には資材の帳面の持って行ったことがある。深く繁る樹々の中で、急に切り拓かれた場に聳えるように設けられていた。ベルグラーヴが国境線に触れているため、護りの要として築かれたとエレーナは聞いている。訪ねた時は、ちょうど足場を組み、外壁の補修をしている最中であった。褐色肌の男が上半身裸で作業をしていたのを覚えている。その足場が何者かによって崩された。それがために多くの怪我人が出ていた。


――降りかかる火の粉は、振り払うものだ。脅威は駆逐しなければなるまい。


 ベルグラーヴの襲撃事件を想い出した。一人の男が村の中心部で凶行に走る中、他勢力が教会を襲い、教司とその守護士が殺されている。またその様子を見に行った保安駐在所勤務の男も、額を撃ち抜かれて死んでいた。ここしばらくの生活の中で、静かな田舎との認識があった。ここは深い翳りのある村であると、エレーナは改めて意識の中に落とし込んだ。


――そして、その翳りを暴くために、掛け合って、あの二人を呼び寄せたのだろうな。


 そう推察していた。


「これから戦争でも始めるのでしょうか?」


 ベッドの上で文書を読むフェリルに一度、そう尋ねた。食事の給仕や、掃除のためにフェリルの部屋を入ることは度々あった。平時ならば、狩りに誘われることもあるのだが、ここ一週間ほどフェリルは、ベッドにいた。過労で倒れたことにより、アーネストや側に立つのルシアナが、そうとうに言い聞かせたそうだ。給仕仕事にも慣れを覚えてきたのだが、生来の気性か、野山を駆け回っている方が肌に合った。フェリルについて、猟銃を構えて、空飛ぶ野鳥や草地を跳ねる兎をしとめることが、気晴らしになった。苛立ちが重なる今だからこそ、外に出たいと望みもあるのだが、フェリルは安静と大事をとった。エレーナは粛々と、部屋に据えられている青い花の絵が描かれた磁器の飾り皿を、拭いて回っていった。


 黒い長い髪に切れ長の瞳、睫毛も長く細く長く、両手をそろえてフェリルの傍らに楚々と常に備えるルシアナの姿は、桂の若葉のようとエレーナは思った。それでいて隙が見えない。黒いロングパンツと長袖姿。守護として控えている。


「さあね。でもまあ、似たようなものね」


フェリルは一瞥もないまま、そう答えた。書類にサインをして、ルシアナに渡す。すると間を置かずに、別の書類がフェリルの手に納まった。これをここしばらく続けている。


「今まさに、私たちは戦っているようなものだもの」

「それはいったい、誰と?」

「――ベルグラーヴ、と」


 書類は瞳にむけたまま、フェリルは淡と当たり前のように答えた。ただ眼差しには尖りが帯びている。フェリルが倒れたのは、ベルグラーヴの惣との会合の後だった。農地のさらなる開拓を目指すフェリルに対して、惣は非協力的であったと、エレーナは聞いている。それどころか、本島から来たばかりの小娘であるとして、ほとんど相手にもしなかったそうだ。


――仮にも、ベルグラーヴを任された領主であるぞ。


 会合の場で、フェリルは机を叩いて、そう叫んだとも耳にしている。カーライル家の潤沢な資金を基に、ベルグラーヴの流通を拓き、経済を回そうと奔走しているフェリルに対して、惣は冷ややかというよりも、むしろ蔑視していた。


「こんな処で、敗けるわけにはいかないんだ」


 ぎりと噛み締めるようにして、フェリルは言った。


「だから、その司令官には、ここで倒れてもらっては困るのですよ」


 隣に控えているルシアナが、そう言葉をつなげた。ようやくフェリルの顔が傾いた。黒髪の従者を軽く睨むようなだった。フェリルが倒れて、カーライル邸がバタバタとかき回されたのは事実である。


 エレーナは背筋を伸ばした気を付けの姿勢のまま、引きつり笑いで二人のやり取りを見るしかできなかった。


 山で狩りをしていた頃とは違う疲れであった。今日のことだけでも、思い出すだけで、湿気たため息がもれ出てきた。


「エレーナ、そろそろ戻らないか!」


 背後より声をかけられた。給仕長のエイミーだった。針金のような細い身体つきで、ダミた低い声が、むしろ耳奥に引っ掛かって残る。


「アンナがまだ、戻ってこない」


 半身を向けたエレーナの返答に、エイミーは溜息を吐いた。――そんなことは判っている。敢えて口に出すまでもない、態度による言葉で、読める。エレーナは身体を戻して、閉じた門の向こう側へと視線を飛ばした。


 この門を超えることは、止められていた。何よりエイミーが、徹底的に厳命してきていた。だから、エレーナはここでひたすらに待つしかなかった。


「保安駐在所に、捜索願は出したでしょう」


 提出したのは、赤い空から色を失くしていく頃合いである。さしもの保安駐在所も手燭台を片手に村中の、それも目下に広がる樹海や山までの森まで含めて、人探しに割ける筈もない。書面を受け取って、先ずは村内周知。捜索は夜が明けてからだろうと、エレーナは察している。


――しかし、それでは遅い。


 知れず唇を噛んでいる自分が居た。どこに迷子になる所がある。帰ってこない理由がある。そう思うと、さらに葉が深く刺しこんでくる。


――帰ってこられなくなっているとすれば。


 思考を進めさせれば、進めさせるほどに、胸を掻き立てくる。


「このベルグラーヴで、それも何度も訪ねている教会までの往復。どうしてアンナが返ってこないのでしょうか」


 エレーナの問いに、エイミーは口を噤んで応えなかった。


 この門を出て、西に向かう。小高い丘を越えて、清らかな水の流れる川を眺めながら、橋を渡って、その先にある立派な鐘楼が設けられている教会がある。人気はないかもしれないが、迷うようなものは、何一つない。


 気づいたのは、夕食時だった。並んで食事を摂るつもりがいっこうに見当たらない。邸の中をうろうろと歩いてみても、他の給仕に尋ねてみても、アンナの居場所を知っている者はいなかった。


――教会へ薬のお遣いに出ただけなはず。


 手を振りながら、邸を離れていくアンナの姿を覚えている。くるぶしまで隠れるエプロンドレスを着たまま、風に長い髪を遊ばせて、西へと向かって歩んでいた。――すぐに帰ってくるから。そんな言葉が過る。彼女の幾度か聞いた言葉、ざわざわと心が掻き立てられようだった。


 与えられた部屋のベッドの中で、同部屋のアンナと会話をする。それだけが心の安らぎだった。


 はちみつのような金色の長い髪に、柳の葉のような細くやわらかな眼。笑うときは軽く手を口に添えて、小さく楚々と肩を揺らす。おっとりとした、当たりの優しい口調からは、発見や、ためになったことなど、煌めきのある言葉が出てくる。


――それにしても、アンナの帰りが遅い。


 昼はともに摂っていた。食欲がないからと、マッシュポテトを残していたので、それを分けてもらった。甘辛のソースをかけて飲み込んだ。


「そう待っていても、アンナが帰ってくるというわけではないでしょうに」


 エイミーの小言が風に流れ聞こえてきた。ダミてはいるが、冷たい芯のある声色は、カーライル邸にいる十数名の給仕を取り纏める鋭さがあるようにエレーナは覚えた。だからこそ、サイモンが彼女に任せて、自身はフェイルの補佐周りへと業務のウェイトを調整していた。


「どこに行ったんだろう」


 ぼそと声が漏れた。給仕の仲間の中では、実家に帰ったのではと、軽率に返す者もいた。それはないだろうと、エレーナは確信している。夜、隣で晴れやかな笑みを浮かべていた。給仕仕事に嫌気をさしていたような素振りはない。何より、無垢に手を振って邸を離れていった杏奈の後ろ姿が、その考えを否定させた。


 細い腕で、温かく包み込む彼女が脳裏をよぎった。顔をふくよかなアンナの胸に埋めさせて、両腕は背後に回した。細い身体だった。空いた手は、彼女の二の腕に置いた。柔らかな肌。指を添わせば、滑らかに走った。小指と薬指で、触れるか触れないか、まだ残っている彼女の産毛だけを撫でさするように動かした。――くすぐったいよ。と、微温く掻くような声を出した。跳ねるような心地よさがあった。ちらと上目遣いでアンナの顔を覗くと、白い頬をわずかに赤くしている。熟れ始めの白桃のようであった。自然と手が伸びていた。――触りたい。と思うのが後から着いてきた。湿度の帯びたアンナの吐息が手にかかる。桃の皮をさするように、エレーナはアンナの頬に触れていた。アンナの唇が微かに開く。微笑を携えて、エレーナの髪を梳くように撫でさすった。そしてそのまま、二人で抱き合って眠る。週に何度かは、こうやって、給仕仕事の後を過ごしていた。


「気持ちはわかるけど、エレーナまで居なくなってしまっては――」

「まだ、アンナが居なくなったわけでは――」

「聞きなさい!」


 ぴしゃりとエイミーの声がエレーナの言葉を断った。


「このベルグラーヴから、本島の娘がどこ行くというの? 部屋には私物を残したまま、給金も私が管理しているから、手持ちはないはずよ」

「それは、まあ」

「待ちましょう。もう私たちには、それしかできないのですから」


 肩を抱かれた。指先に力が込められているのを感じた。振り返えらせようとしているのが判る。小枝のような細い腕の癖に、こういう時の舵切りは巧みである。だからこそ、ロシュで雇われた彼女が給仕長を任されているのだろう、とエレーナは感心した。


 立つしかない。エレーナはゆっくりと腰を上げた。強い風が吹いてきた。知れず、捩るように身体を縮こませていた。


「さあ、帰りましょう」


 掴まれた腕が、ぐいと引っ張られる。邸の扉へと身体を向けた。エレーナは返事をしなかった。エイミーに引っ張られるまま、邸の中へと入っていった。そのまま、エイミーに自室に連れられて行き、ベッドに腰を掛けた。


 独りの部屋は、余白が多く、寒々しかった。


――待っていても仕方がない。


 横たえる。目を瞑る。夜が明けたら、行動しよう。それだけ考えた。顔を伝う涙が鬱陶しかった。気づけば、隣に並ぶベッドから枕を手に取っていた。甘い残り香に期待していた。エレーナはそれを抱きしめながら、夜を明かした。


 眠りは浅かった。鏡に映る自身の顔は、くすんでいるようだった。顔を洗い、給仕服に着替えるや、さっそくとエレーナは行動に移る。教会に向かう算段をしていた。


「おはようございます」


 給仕の詰め部屋に入る。すでにエイミーの姿があった。そして、フェリルとルシアナも居た。フェリルは杖を携えて、給仕長の席に腰かけていた。


「いいところに来た、エレーナ。君も森へ行ってくれないか」


 そうフェリルから声をかけられた。


「森、ですか?」

「そうだ。西に広がる森だ。今日これから、探索隊を出す。銃の腕が活きそうだ。頼むぞ」

「はあ」


 青い瞳をぱちくりと瞬かせながら生返事が出てきた。


「しかし、エレーナは給仕であって」

「彼女を拾ったのは、私だ。こういうこともあろうかと思って、雇ったのだ」


 フェリルに対して、エイミーは返す言葉がなかった。ただフェリルに向けられた、彼女の眼差しは雄弁であった。


「私の銃が必要になるような、捜索なのでしょうか?」


 勝手に口が開き、尋ねていた。フェリルは深く頷いて返した。


「もしかすると、アンナの消息に関わるかもしれんな」


 その言葉で、エレーナの意思は固まった。

お読みいただき、誠にありがとうございます。

ゆっくりとではありますが終盤に向けての枝葉が伸びた頃となります。


引き続きご愛顧いただければ幸いです。

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