序 - 2 -フラッグ-
「序-1 -ウェザース」からの続きとなります。
襲撃を受けるベルグラーヴを別視点から。
考えるより先に手綱を捌いていた。馬首をロシュへと向けていた。最寄りは北西の砦だ。そこに国境警備の軍が控えている。しかし、馬を止めて道を戻るのがもどかしかった。フラッグは鞭を入れて、さらに馬を駆けさせた。風が眼を突き刺してくるよう。痛みは全身にまで響く。それでも堪えて大きく開き、暗がりの中で微かに浮かぶ道を捉えんとした。
頭から血を吹いて倒れる男を見た。そして、銃口を向けて近寄ってくる男を見た。フラッグの脚は震えた。銃声が聞こえる前に消えていなくなりたくなった。しかし、足は硬く力んで動かない。引鉄が絞られたのが判った。膝がすくんで尻もちをついた。命中からは外れていた。ごろりと身体をうつ伏せに地につけて、這った。保安駐在所に勤めている、村を守らなければならない。そんな意識も誇りもなかった。恥も外聞もなく逃げ出した。
また銃声が耳を突いた。しかし、身体に灼けつくような痛みはなかった。また外れたのか。少しばかり腰が上がっていた。手の内を地につけて掻き、猿のように駆けていた。
どこをどう進んだのかのは覚えていない。灯りが見えたことに喜びがあった。しかし、背後より銃声は聞こえてくる。保安駐在所まで、デタラメな足取りでフラッグは駆け続けた。
――何が起こった。
村外れの民家から火の手が上がった。その一報を聞いて、フラッグは消火剤を詰めた小袋を手に、仲間と共に現場へと向かっていった。
実際は違っていた。猟銃と手斧を持った男が暴れていた。出くわした時は、手斧を振りかざして、老婆の頭に一撃を放っていた最中だった。老婆の顔は縦に割れて、ばたりとその場に倒れ、血の海を作った。次いでとばかりに、彼の視界に入ったモノに向けて、猟銃を放つ。胸や頭から血を吹き出して倒れていく。
フラッグは口を開けて、呆然とその様を見ていた。そして隣立つ仲間の額に赤い穴が開き、血を吹き出して倒れた時、我に返った。同時に恐怖で身体が強張り、ますます動けなくなっていた。
悲鳴も聞こえない。逃げることだけにしか身体は反応しなかった。民家の火事も、もはやどうでもよくなっていた。
――命に代えても。
研修の際にはそう叫んでいた。いや、叫ばされていた。考えるより体で反応するよう叩きこまれていた。それでもなお、いざという時には背を向けて逃げ出している。歯を食い縛り、胸が裂けそうなほど心臓が脈打つのを感じながら、駆ける足を止められない。
――こんなの訊いていないぞ。
そう叫びたかった。フラッグはベルグラーヴで生まれ育ち、ベルグラーヴの保安駐在所で採用となった。ロシュでの研修を終えて、警巡視従士との肩書を拝した。異動のある執行官や警吏とは別に、土地を知る土地の者として据え置き続けられる下役である。毎日、村をぐるりと巡視して回り、その際に聞こえた声を拾い集めて、上官に報告する。もっとも声と言っても、特に事件に成りそうなものはなく、愚痴や相談事が大半だった。手助けのために田畑に入ることもあった。高熱を出して倒れていた子どもを背負い、保安駐在所の診療師の前まで運ぶのが今までの一番の事件だった。
それまでも火事はあった。年に多くて二、三件程度。民家が全焼するほどのことはまずない。数年に一度は怪我人や死者も出てはいたが、放火はなく、灯り火の不始末が主因であった。
平穏な村である。村民間で多少のもめごとはあったが、殺傷事件になるような大ごとや摩擦の蓄積もない。山があり、川が流れる。天候にも恵まれ、作物も一定の収穫を確保し、租税を納めるにも取り立てて苦はない。慎ましやかながらも、そこそこの生活ができていた。
――それがどうしてこうなった。
脚が縺れた。勢いそのままに前のめりに成った地に転がり倒れた。強かに顔面を撃ちつけながら、ひりひりと響く痛みを甘んじるしかなかった。
両足が絡まっているようで立ち上がることがままならない。喉を擦るような粗い息が胸から、腑の内から途切れず込み上がってくる。 立ち上がれるように成るまで、両腕を掻くようにして進むしかない。フラッグはそれでも現場から離れようとしていた。
暫く地をずりずりと削るように進んでいた。深い呼吸を続けることでか、視界が落ち着きを取り戻したかのように覚えた。白い満月に輝く星々。銃声が聞こえてきたが、音は小さい。それだけ遠くに外れていることなのだろう。そう考えにいたり、膝を折って腕に力を入れて、腰を起こす。最寄りの壁に手を当てて、それを頼りに立ち上がれた。
呼吸は未だに蒸し粗く、苦しい。しかし冷たい風を受けて、熱の籠った頭が思考を取り戻していくようでもあった。
猟銃を持っていた男の顔に覚えがあった。痩けた頬に短く切り揃えた髪型。背丈はひょろりと長く、少し肌が青い印象のある男。一昨年あたりに村に戻ってきたマーク・トンプソン。フラッグは毎日のように見周りをし、村民の顔を見続けてきた。顔と名前はもはや肌で覚えている。ロシュへ親戚の店に勤め出したが長続きせず、その後は国外れの炭鉱や鉄鉱山で勤めていたと聞いていた。しかし身体に触りが出て村に戻ってきたのだ、と。
家の畑仕事を黙々とこなす姿をしばしば見ている。老齢の二人暮らしの処に働きでとなる若い息子が返ってきたと、彼の両親は喜んでいるようであった。口数は少なく、大人しいと称するよりも、暗さをフラッグは感じていた。眼の奥にぬめり気を帯びたような陰りのあるような暗さだった。しかし、そういうヤツもいるとぐらいしかフラッグは考えていなかった。
――彼に何があった。
自身の胸の内に訊ねても答えは出てきはしない。答えを知っているのはトンプソンだけだろう。
壁に少しばかり体重を預けながらも、脚を交互に動かして進んでいく。もう少し進めば保安駐在所に辿り着く。ひときわ大きく息を吐いた。しかし安堵している場合ではないとも言い聞かせる。彼は未だ凶行に走っている。止めなければならない。
ふと身体が動かなくなった。視界の隅にぼうと光るものが映り込んでいる。凝らして見やれば、幾つもの光があり、微かに揺れ動いている。この先には、木々の繁る並木とその奥には林がある。無論、夜中に人がよりつくはずもない場である。
――何が起こっている。
血の気が引いてきた。同時に光が消えた。林の奥で灯が瞬間的に消えたのである。誰かいる。――誰がいる。悪寒がした。身を潜めている。しかし、トンプソンの凶行から逃れているとは思えなかった。フラッグの直感でしかないが、まったく別の風の流れを覚えてしまい、その思考に頭が侵されている。もっとよくない事が起こる。そうとしか考えられない。
――いったい全体、ベルグラーヴに何が起こっているんだ。
フラッグはまた歩き始めた。林の方ではない。保安駐在所の方へである。出来る限りの早足で、寸刻でも早く事態を伝えなければと焦りが出てきた。
間もなく辿りつきそうになった折に、保安駐在所の扉が開かれて、所員が飛びだしていった。小銃を構えた者もいれば、診療材を詰めた大きな鞄を提げて走る者もいる。
「フラッグ、どうした」
所長のミリガンが駆け寄ってきた。言葉を紡ごうにも、喉が掠れて音が出てきそうになかった。震える眼でミリガンを見詰めるしかできない。
「裏で休んでいろ」
しかし彼もまた急いている。ぽんと背中を叩かれた。ミリガンは小銃を構えて、走り去っていった。トンプソンと応戦するための指示は彼が出すのだろう。そのために現場に赴くのだ。
保安駐在所の裏口に回り、井戸水をポンプでくみ上げる。一先ずはと、フラッグは桶に溜まった水に顔を突っ込んだ。口をパクパクと上げて舐めるように水分を身体の中にもしみこませる。暫くしてから顔を上げて、桶を頭上に掲げて水を被るのである。切られるような冷たさが全身を襲ってくるが、それを五、六度繰り返した。
息は未だに大きいが、ヤスリのように擦り上げる心地はなくなっていた。自分も小銃を構えて応戦するべきだと井戸より離れるが、視界の先に馬小屋があった。
メンデス家への伝達は向かっているだろう。しかし、それだけで果たして大丈夫なのだろうか。冷たい水が頬を伝って、首筋を流れ落ちていく。フラッグは眼を擦り上げて、馬小屋へと足を向けた。
まだ一頭残っている。馬には自信があった。ロシュでの研修の際には優の評価を受け、幾度となくベルグラーヴまでの往復を繰り返している。
鞍と手綱は側にあった物で賄った。支度を手際よく済まして、馬に飛び乗る。嘶き前脚を上げるも、バランスを取って乗りこなし、手綱を引いて駆けさせた。
――もっと人手が必要だ。
――いっそ一個隊が動いてほしい。
村の目抜け通りに出て駆けさせる。国境間際に駐屯する軍か、それとも兵舎を設けるロシュか。その選択肢の中で、ロシュを選んでいた。
ベルグラーヴは平穏な村である。しかし、国境の間際に位置している。境までは徒歩で一日ほどで辿り着く。ただ山と樹海が壁となっているに過ぎなかった。越そうと策を練れば越えられる。国境の警備団の盲点を突いて、間諜が入り込んでいるとの噂は幾度となく耳にしている。噂は噂であり、フラッグは実際にその現場を見ているワケではない。しかし、生来よりベルグラーヴに暮らす彼には信憑するに足る噂であった。
そして、その噂が頭の中いっぱいに広がってしまっているのである。いくら頭を振ろうとも抜けてはくれない。妄想ではなく、現実的な恐れとして。南にはアストラがあり、西方にはドライゼが控えている。教会の総本であるファブリカのユーグ大聖堂にて不戦の誓いは立てているが、極めて表面上の、政治的な誓である。それは成人と認められる者なら、誰もがそう知っている。教会の建前を守るために――、しかしその裏ではこそこそと仕掛け合っている。だとすれば、並木の奥に仄見えた橙色は。あくまで可能性に過ぎない。しかし為すべきことを成さずして、大事となるのはもっと耐えられない。
馬蹄の音を残してひたすらに駆けさせる。風を切り裂くような速さと成っていたが、フラッグは馬上で腰を上げての前傾姿勢を保ち、目をひしと凝らして、暗い夜道から逸れぬようにと手綱を捌いていた。
ベルグラーヴからロシュまで、一刻は必要だろう。往復ならば二刻となる。やはり時間がかかり過ぎるかと脳裏を過ぎるが、もはや道は変えられない。より速く馬を駆けさせるしか時間は短縮できない。馬を駆けさせているだけというのに、額から汗が生じている。そのまま横に流れていき、視界の邪魔はしない。髪を短くしてよかったとの感慨が湧いた。息をする度に、喉がざりと擦られるようであった。
手燭光は持ち合わせていない。月明りだけが頼りだった。今宵が満月であることに感謝した。薄ぼんやりとだけではあるが、それだけでどれだけ心強いか。馬をますます加速させる。耳が障るほどの風切り音がしている。肌が切れてしまうのではないかと思えるほどの鋭さを受けている。ぐっと耐えて、姿勢を変えずに手綱を握り絞めた。
頬に灼けつくような痛みを覚えた。片手を当てて見る。ぬるりと赤黒く染まっていた。血だった。頬に裂傷が走っていると発見した。途端、背後より銃声が聞こえてきた。
フラッグは咄嗟に腰を降ろして、馬の背に身体をピタリとくっ付けた。耳をそばだてると、馬蹄の響きにズレがある。一頭――いや二頭が追ってきている。
振り返らなかった。再び銃声が聞こえてくる。痛みはない。でも音は大きくなってきている。それだけ近付いてきている。フラッグはそこに焦った。
より速く。追手よりも早く、銃弾よりも早く、馬を駆けさせなければならない。自身の身体を馬の背に同化させるように背を屈めさせて貼りついているが、地を蹴る脚、それを保つ部位の邪魔にならぬようにとの配慮はした。手綱を握り、首だけを持ち上げてひたすら正面を睨んだ。
銃声は等間隔で響いてきている。果たして何発、保持しているのか。抵抗する武器は持ち合わせていない。それだけにフラッグは駆けさせることのみに集中できた。
これより林道に入る。これを抜ければいよいよロシュの羅城が見えてくる。そのまま正面の門兵に早馬の意を伝えればいい。後の事は考えない。ロシュに飛び込めばどうにでもなると割り切って、それ以上のことは思考の外へと出した。今は専ら、ロシュへたどり着くこと。そのためにはこの追っ手を払うこと、銃弾から逃げ切ることだけだ。
林の中に入れば、月明りは木々に遮られてしまい、ますます視野は暗くなる。それでも加速させなければならない。
まばたきもしなかった。砕けそうなほど噛み締めて睨んだ。夜闇と木々の影の中でぼうと白い直線が見えた。それが道だと直感があった。それに沿って馬首を操った。
嘶きが微かに聞こえてきた。銃声はいつの間にか聞こえなくなってきていた。馬蹄は一つ――この馬のモノだけ。
――撒いたのか。安堵はない。その思考は直ぐに捨てて、暗色の中でぼうと淡く滲むように浮かんだ白い道だけに集中する。ここから逸れてはならない。ただひたすらそれだけを意識して手綱を握った。
森を抜けた。月光に眩むほどの明るさを覚えた。束の間だけフラッグは眼を瞑り、慣れるまで細く顰めさせた。
白茶けた地が広がっている。なだらかな勾配が続いている。馬から身体を離して、腰を浮かせての前傾姿勢に戻す。心臓の鼓動が強く響いてきた。胸の内より激しく叩きつけてくるようだった。
瞼が重たい。視界が細く成ってきていた。視界が白く濁っているようにも感じる。それでも瞑るワケにはいかない。まだもう少し馬を駆けさせなければならない。身体は砕かれるような痛みが響いている。その後の事を済ませるまで耐えなければならない。
黒い夜空に暗い道。その先に爪先ほどの橙色が滲んでみえた。――羅城の燭灯だと瞬時に判った。いよいよロシュが見えてきた。
頭がぐらぐらと揺れて覚束ない。身体が重たくなってきた。フラッグは耐えた。脳裏でトンプソンの銃口からみっともなく無く逃げ惑う自分の姿がちらついていた。情けなさが今更込み上がってくる。克己しなければならない。そう奮い立たせた。
さすがにもう銃声は聞こえてこない。追っ手は諦めたのだろう。橙色が大きくなっていく。その光を頼りに木柵の羅城の姿もはっきりと見えるように成ってきた。
「伝令! 伝令ぇ!」
喉が擦り切られる心地がした。それでも叫ぶように声を出した。
「ベルグラーヴが強襲を受けている! 直ちに応援を!」
視界がいよいよ白い濁りに侵されていく。フラッグは馬上で手を大きく振り回し、己が姿を見て貰わんと必死に振る舞い、声を放った。
門兵の一人が動いた。顔をこちらに向けている。フラッグはさらに激しく手を振った。
「どうした!」
微かに声が聞こえてきた。――届いた。そう脳裏に過った途端にぐらりと身体が傾いた。フラッグはそのまま無造作に馬より転げ落ちた。強かに背を打ち付け、頭に重く響く痛みもあった。
「診療師を呼べ、担架を持ってこい」
そんな叫び声が聞こえてきた。視界はちかちかと光またたき揺れている。身体を起こすことはできない。
――まだ倒れるワケにはいかない。
朦朧とする意識の中、顔をもたげさせた。ベルグラーヴが襲われている。それを伝えるまでは、とフラッグは震える喉から声を発しようとしていた。
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