4-3 -エレーナ-
銃の腕を買われて雇われたエレーナから観るカーライル家の様子を。同性の同僚との絡みから、フェリルやレイチェルたちとの立ち位置の違いなどを、カーライル家の外にいたエレーナの眼から描きたかったのです。
エレーナはぱたぱたと音を立てて廊下を走っていた。サイモンから叱責の声が響いてきそうであったが、フェリルからの呼び出しと聞き、気が急いていた。紺のロングスカートをひらひらとなびかせながら、長い廊下を駆けていく。
くるぶしまで届くようなロングスカートのエプロンドレスは、裾を踏んで幾度も倒れてしまっていたのだが、ようやく走れるまで慣れを覚えていた。ぼさぼさだった髪も整えられ、支給されたエプロンドレスは定期的に洗濯される。山で猟を、ランスで借金取りに怯えて、切り詰めて生活していた頃を思えば、エレーナには極めて快適な環境だった。こびり付いたかと思っていた硝煙の臭いもすっかり落たような気がした。
――おカネを貯めて、香水でも買おう。それとも石鹸かしら。
そんなことを考えながら、与えられた業務とアーネストから出されている、読み書きと計算の課題を消化していた。
求められた課題は決して単純なものばかりではなかった。そもそもエレーナは文字は知っていても、それを組み合わせた単語をあまりよく知らない。一冊の書籍を差し出されて、一週間以内に感想文を書くよう求められた。与えられた辞書を片手に調べながら読み進めていく。文字の並びが人名だと知るのに一日を要したこともあった。
同室のアンナに教わりながら、やっとの思いで読み終えて、たどたどしい筆跡と幼稚な語彙で感想文を書き上げた。アンナはそんなことも知らないのと目を丸くしていた。猟をしていた頃は、引き取り額が読めて自身のサインが書ければ、それで全てが済んだ。借金をした時は、その延長線上として済ませていた。そうやって暮らしていたことをアンナに話すと、だらしなく口を開けて絶句している彼女の表情があった。以来、このことは誰にも喋らないようにしようと心に誓った。
アンナは自身のことを世間知らずだと謙遜しながらも、エレーナの課題をよく見てくれた。彼女は彼女でサイモンから課題を出されていた。直接的な仕事の課題である。階段の手すりの雑巾がけに、廊下の掃き掃除、壺や飾り皿といった調度品の磨きなどが任されているようだった。業務上離れ離れになるが、時間を見ては、エレーナは彼女の仕事を手伝っていた。
金色の長い髪に柳枝のような眉。細く長い指先。エプロンドレスを着ていてもくびれが判るほどの華奢な腰回り。こんな人が居るのかと驚きがあった。それも使用人として、自身の同部屋の同僚として勤めている。
――エレーナさんが羨ましい。
そう呟きながら固く隆起したエレーナの二の腕や、傷痕だらけの身体を撫で触ってくるときがあった。アンナの柔らかな指先とするりと滑る掌に、くすぐったさを覚えて、たまらず微温い吐息が漏れたが、我慢して触らせた。月明りと燭台の小さなゆれる炎のみの部屋の中。白い安物のネグリジェのみ。互いに向き合い、並んだベッドより互いの手を伸ばして、触れ合っていた。
山を駆けている最中にできた傷痕は、自慢でも何でもなかったが、こうやってアンナに褒められると、背中に甘痒さが走り、それが少しばかり心地よかった。代わりにとアンナの手を握って瞳を見つめると、じわじわと頬を赤く染めていき、目を伏せて視線を外そうとする。そんな姿が可憐に思えて、猟銃の腕前や羚羊のような脚よりもエレーナには羨ましさを覚えていた。
課題を終えてアーネストに提出すると、じっくりと読まれた上で、次の書籍を渡された。より薄く、よりすらすらと読める内容だったが、自身が実力を量られているのが露骨に判った。感想文を書くにしても、必死になって書くほど、自身の裸が晒されるような心地すら覚えた。しかしそうでもしなければ、書き直し再提出が厳しく求められた。時にはその日の使用人としての仕事を外されて、課題の消化を指示されるときもあった。
アーネストは厳しくもフェアだった。再提出を求められる時は、エレーナにも理由が察せられることが判った。最低でも納得がいくような印を必ず残してくれる。スペルのミスや読み間違えについてそれとなく赤をつけてくる。それはカーライル家に勤める者がそう心掛けているようにも感じられた。
使用人としての業務の指示を出すサイモンにしても、経理担当としていつも眦を尖らせているレイチェルも、裏庭で煙草をくゆらしながら空を眺めているレヴィンも、努めてそうあろうとする姿を感じていた。指示を出す前に先ず、自らが箒や雑巾、調理場ならば包丁を、書類の整理ならば、山積みの紙の前に立って、作業の工程を口頭での説明とともに手を動かして見せる。そうしてから、エレーナやアンナに作業をさせる。
――日曜学校の先生じゃあないんだから。
壁越しにレイチェルのそんな言葉が聞こえてきたことがある。
――やってみせ、言って聞かせて、させてみせ。
メリルが恬淡とした口調で、レイチェルにそう返していた。その言葉を受けて、レイチェルの反論はなかった。調べてみると、フェリルの好む遥か東方の賢人の語であることが判った。アーネストにその書を読んでみたいと伝えるも、まだ訳本が出ていないので無理があると断られていた。実際にその本の表紙を見せてもらったのだが、糸くずを散らしたような文字が並んであるだけであり、すぐに断念した。
――フェリル様は、これを読めるのか。
フェリルだけではなく、彼女の後ろに常に控えているルシアナやアーネストも読めると聞いた。エレーナはそれを知るや、彼女たちに距離を覚えた。そして、どうすれば少しでも近づけられるのか、考えた。アーネストからも求められる課題に対してより一層、励むようになった。
給与をいただきながら、仕事はおろか、学問まで教えてもらっている。その上に仕事仲間にも恵まれている。常に抱いていた猟銃は取り上げられたのだが、カーライルの屋敷に入ってから、そのことを噛み締めていた。その上、フェリルから雪解け後に猟にでる約束もしている。
――王都ではないけれども、此処は十二分なほど良い所だ。
ランスで借金に追われながら生活をしていた頃が嘘であるように思えた。あの時、カーライルの名前を信じて、恥も外聞も捨てて、事務所に居座っていて良かったと心の底から思えた。
エレーナの足取りは軽く、執務室の前でスカートの裾や皺の具合を正してから、ノックをする。
「エレーナです。フェリル様に及びいただきまして――」
「入れ」
固い声が扉越しに聞こえてきた。フェリルの声に違いないが、鋭利さをも帯びていた。途端に、エレーナは背筋を伸ばして、表情を強張らせた。
「失礼いたします」
入室とともに、深く頭を下げて礼をする。アーネストから教えられた通りの体配で、型に準じて身体を動かす。これが無難である、と使用人仲間のロベルトから教わった。
ベッドのような広さを机には、書類が山積みされていた。中央部分だけ片付けられており、着座のフェリルの姿と、その奥でペンを片手に控えているルシアナの姿が見えた。
「早いな」
「そうでしょうか」
「まさか廊下を走っていないだろうな?」
「え、いえ」
言葉を詰まらせてしまっていた。フェリルの唇がにやりと歪んだ。
「エレーナは嘘が下手だな」
「すみません」
「いや、とても良いことだ。少なくても、私の下に居る間は、それで苦労をさせない」
書き物を進めながら、フェリルははっきりとした口調でそう言った。エレーナはきっぱりとしたフェリルの態度が、判り易くてとても好きだった。
「実はな、教会にお使いに行ってきて欲しいんだ。頼めるか?」
亜麻色の髪を掻いた後、苦そうに眉を寄せてフェリルが言った。
「丘の上の教会ですよね。それは、もちろん」
エレーナは目を丸くさせながら淡々と答えた。フェリルはきまりの悪そうに首裏を掻きながら言葉を続けた。
「先月、挨拶に行ったときに、ちょっと具合が悪くてな」
「お嬢様にはもう少し、謙虚と配慮を覚える必要があるのではないのでしょうか」
控えていたルシアナのため息交じりの言葉が聞こえてきた。フェリルの従者であり、丁寧な言葉遣いであるが、その口調はフランクであるようだった。
「そうは言われてもな」
フェリルは苦い表情のまま、ペンを机上に置いて腕を組んだ。目元には影の色があった。つい先日は、ヴァロワ家に挨拶に行き、昨日まではルベツキ家へ訪問していた。その他にも東奔西走と、人に会いに行っていく。その上で机上にたまった報告書や会計帳簿の書類を目を通して、必要に応じて認印を記していく。エレーナがベッドに横になる時間帯でも執務室の燭台の明かりは灯り、二人は仕事をこなしていると聞いている。
――これは我々に課せられた業務だからな。
アンナが一度、手助けを伺ったことがある。その際には、フェリルはそう言って断ったそうだ。煙を払うぐらいの軽さのある口調だが、頑なな芯があるように覚えたとアンナは言っていた。
――それでも少しの役に立てるのなら。
フェリルの後ろの席に居るルシアナの細い眼がさらに細くなって、フェリルを見た。
「初対面の教司様にふんぞり返ることはないでしょうに」
「ウチの寄付で補修できたようなものではないか。それに教司に成れたのも――」
「それが事実であっても、教会は絶対中立。その建前が守れなくなったら、存在価値がなくなるのですよ」
「それは、そうだが」
「建前は守る。守った上で仕掛ける、でしょう」
「父のようなことを言わないでくれ」
「あら、そのための〝ファン・リー〟ではありませんでしたっけ」
ルシアナの言葉に対して、いよいよ返事が亡くなったのか、フェリルは唇を尖らせながら、背凭れに身体を預けた。横柄な姿勢に見えたが、エレーナにはなんだか可愛らしく映った。
「まぁ、取り敢えず、リストは用意してある。これをリディア教司に渡してくれ。その場で持って帰れる物があったら、持って帰ればいいし、そこら辺は任せる」
「畏まりました――で、申し訳ありませんが、格好なのですけど」
フェリルの手よりメモ用紙を受け取るものの、数歩下がった後に、エプロンドレスのスカートをつまんで見せる。
「これしかないのですけれども」
「ルシアナ!」
「ついていらっしゃい」
再びルシアナがため息を吐いた。椅子より立ち上がって、エレーナの側に寄ってきた。窓の外を一瞥してから、エレーナの扉へと向かっていく。
「今度一緒に、ロシュへ行く必要がありますね」
額に手を当てながら、そんな言葉をこぼしていた。長い黒髪に、落ち着いた口調。自身と比べて拳一つほど背が高い。ルシアナに近寄られると、首を上げて見上げるようになってしまう。
「いっそ仕立屋を呼ぶのも手だな。メリルやアンナも喜ぶだろう」
「その費用はどうするのですか」
「なに数になれば、やり繰りできるだろう」
「またレイチェルさんが頭抱えて、悲鳴をあげますよ」
「そうだな――レイチェルの分は私が出そうか」
「そうしてあげてください」
二人は会話をそこそこに切り上げて、フェリルは机上の書類に向き直り、ルシアナはエレーナを連れて、廊下を進んで行った。
ルシアナが貸してくれたのは、厚手のニッカボッカとコングブーツ。そして毛皮のコートだった。
「雪が降っているわけでもないし。日が落ちる前には戻れるでしょうから。これで」
ルシアナ自身の物であるが、身体の大きさからみると、着られなくなった服のようにエレーナには思えた。それでも、おさがりではなく、あくまで貸し物とされている。おさがりをすると、いつまでたってもエレーナが自身で服を用意しなくなるからと、牽制を入れられた。
見送られて、屋敷の外へ出ていった。馬などはない。そもそもエレーナはあまり馬が得意ではない。サクサクとくるぶしぐらいまで積もった雪を踏みしめながら歩いていく。風はまだまだ頬を剃るように冷たい。それでも、照り付ける日差しにうっすらと額に汗を浮かばせる。日が長くなってきたようにもエレーナには感じられていた。
ポケットにしまっていたメモ帳を開いてみる。赤チンや鎮痛剤のほかに、疲労回復や滋養強壮に服用される薬が記載されている。また、紹介めかした一文も含まれていた。初対面の挨拶がそうとうに悪かったのだろう。挽回の機会を乞いているようだった。
村中にも人影がちらひらと見えていた。畑の前で、あるいは井戸の近くで、集まり、それぞれ語らいあっているようだった。エレーナが子供の頃にも見かけたことがある。雪が解けた後の、いよいよ訪れる春に向けて喋りあっているのだろう。
足取りは軽かった。ルシアナから借りたブーツの履き心地が良く、何より雪の足音が気持ちを軽くさせてくれる。灰色の雲ばかりが浮いていた頃も終わり、黒ずんだような青空も、いまではすっかり澄んでいる。
橋を渡って、川を越えて、小丘を登っていく。少し早足になっていたからか、背中にシャツが貼りついているような感覚をエレーナは覚えた。
高く伸びる鐘楼と、ステンドグラスのきらめく教会が見えてきた。扉の近くには三人の男女が立っていた。黒い修道服を着た女性がリディア教司であるとエレーナでもすぐに判った。
一つだけ呼吸して、姿勢を正してから、エレーナは彼女らに近づいていった。
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