第八十五話 気合いを入れて
コーヒーカップをはみ出すほどの、白い泡。これは、俺がスチームに失敗したことで生まれた物体だ。どうやら、ミルクを泡立てすぎてしまったらしい。上手くいっていれば、もっときめ細かい、綺麗な泡ができるはずだった。
「まあ、いきなりスチームは難易度高いよねぇ。仕方ない仕方ない」
露骨に落ち込む俺を、歌原さんが慰めてくれた。
背中を擦ってくれる彼女の手は、やけに温かく感じられた。
「そ、そうだよ! 味は美味しいし!」
そう言ってくれたしずくの口元には、ミルクの泡がべったりとついていた。まるでサンタクロースの髭のようで、俺と歌原さんは、同時に噴き出して笑う。
「なんで笑って……あっ!」
しずくは、自分がどんな状態か気づき、慌てて口元を拭う。
「ちょっと! 恥ずかしい! あんま笑わないでよ⁉」
「だ、だって……いくらなんでも可愛すぎると思って……くっ」
「もうっ! 二人ともイジワル!」
それからというもの、俺がアイスコーヒーを用意するまで、しずくはずっと拗ねていた。
「――――はぁ、恥ずかしかった」
しずくは、ため息をついて、アイスコーヒーに口をつけた。
対面に座りながら、俺は苦笑いを浮かべる。
「悪かったよ。次はもっと上手く作るからさ」
しずくが泡まみれになったのは、俺のスチームが下手すぎるせいだ。このままでは、メニューに加えてもらうなんて、夢のまた夢である。
しかし、いきなり上手くいくとは思っていなかった。これから練習に練習を重ねて、やがては完璧なカフェラテを飲んでもらうつもりだ。
そしていつか、バリスタになって、自分の店を持つ。それが、俺にできた新しい夢だ。
「頑張ってね。試飲ならいくらでも手伝うからさ!」
「ああ、よろしく頼む」
「了解!」
しずくはそう言って、びしっと敬礼した。
「……それはそうと、私たちにはさ、もう一個大事な問題があるよね」
「え? 何かあったっけ?」
「夏休みだよ! 夏休みが終わっちゃうんだよ!」
そう言いながら、しずくはテーブルに突っ伏した。
確かにそうだ。エスプレッソマシンの到着に浮かれすぎて、いつの間にか意識から抜けてしまっていたらしい。
「はぁ……めっちゃ憂鬱……あと三か月くらいごろごろしてたい」
「長くないか?」
「ごろごろタイムなんて、長ければ長いほどいいの!」
テーブルに突っ伏したまま、しずくは顔だけこちらに向けた。
「せめてさ、冬休みも一か月くらい欲しいよね」
「それは、分かる」
「ねぇねぇ、冬休みもどっか旅行しない? なんとか休み取るからさ、温泉とか行こうよ」
しずくが、期待に満ちた視線を向けてくる。
温泉、か。心惹かれる提案だ。
「いいな。あんまり遠くなければ、行けると思う」
「やった! じゃあ熱海とかどう⁉ 新幹線で一瞬だし!」
「え、熱海ってそんなに近いのか」
「うん。ほら、大体四十分くらいだよ」
しずくが見せてくれたスマホには、確かにそう表示されていた。
なんだ、この時間なら、都内を移動するのとそう変わらないではないか。
「ゆっくり温泉に浸かって、夜は美味しい海鮮食べて、次の日はチェックアウトギリギリまで寝る! どう?」
「……最高の旅行だな」
「でしょ?」
食べて寝るだけだって、俺たちならきっと楽しめる。そんな確信があった。
「また思い出が増えるね。夏休み明けは文化祭もあるし、楽しみなこといっぱいだー!」
「そっか、文化祭か……」
去年の文化祭は、ほとんど記憶に残らないほど、あっさりと終わった。
誰かと一緒に回ることなどあり得なかったし、クラスの出し物に関わっている時間以外はすべて、休憩所となっていた図書室で過ごした。
「しずくは参加できるのか?」
「うん! 仕事は入れないでもらったから、ばっちり参加できるよ! それに文化祭には、どうしても譲れないイベントがあるからね……」
しずくの目に、闘志が宿る。うちの文化祭に、そんな気合い入れるようなイベントがあっただろうか?
俺が首を傾げていると、しずくはかっと目を見開いて、前のめりになった。
「ミスコンだよ……! 毎年やってるじゃん!」
「そ、そうか……そんなのもあったな」
しまったな。まったく知らない。
「結構燃えてるんだよねぇ……モデルとして、絶対に負けられない!」
「出る予定なんだな、ちょっと意外かも」
文化祭のような、いわゆる遊びの場に、しずくのようなプロが出場していいのだろうか。
――――まあ、別に禁止されているわけでもないし、いいのか。
むしろ、しずく目当てで、多くの観客を集めることのほうが重要か。集客は多いに越したことはないし。
「去年、さすがに場違いかなって出場しなかったら、陰で〝逃げた〟とか言われたの! だから今年は出場して、圧倒的な差で優勝してやるんだ! 見ててね、純太郎!」
「ああ、ちゃんと見てるよ」
そう言うと、しずくは嬉しそうに笑った。




