9話
水族館についた私達はまずお昼ごはんを取った。その後ペンギンを見たり大きなエイを見たりジンベイザメを見たり、ヒトデを触って、ユリちゃんとおそろいのキーホルダーを買って、「水族館」というのは私の中で楽しいイメージになった。記憶がなくても、思い出がなくても、こうやって新しい思い出で埋めていけたらいいな、なんてイルカショーのイルカを眺めながら考えてみる。観客の大きな歓声とイルカの水しぶきで別世界から一気に戻されてしまう。
「私、友だちとこんなふうに遊べるなんて中学の頃は考えられなかったから。今日、すごく楽しい」
ユリちゃんがそう呟いたので「私も」と言葉を添えてみた。
「初めての水族館はどう?」
私は隣りに座っている夕薙くんに声をかけてみる。しかしその返答は返ってこない。彼はきれいな横顔をイルカのプールに向けたままぼーっとしている。「夕薙くん?」
私は彼の肩を軽くたたいた。
「あ、ごめん」
ハッとした夕薙くんはやっと視線を私に向けた。彼は今日は口数も少ないし、なんだかぼーっとしていることが多い気がする。やはり昨日、遅くまで見回りをしていたことが体に障っているのだろうか。
「大丈夫?」
「あ、うん。全然大丈夫」
そうしてまたいつものような笑顔を見せる彼だけど、どこか心配だ。わたしはいたたまれない気持ちになりながらも「次、何みる?」と話題を変えた。
楽しい時間はすぐに過ぎていく。それは小学生でも知っていることだ。気づけば水族館の窓の外から月が覗いていた。七時を知らせる放送が流れ私達はそろそろ帰ろうかと話をしだした。私には心配する人がいないが、他のみんなはどうなのだろう。そう尋ねようと思って一歩前に出てみる。すると不思議と私の中で何かを通ったような感覚があって、あたりが急に暗くなって静かになった。たしかに水族館の展示場の中は薄暗くて静かだけど、私達がいたホールは展示場の外で明るくにぎやかな場所だったはずだ。「あれ?停電かな」そしてあたりを見渡してみてやっと自分の違和感を理解した。ここはさっきまでいた水族館のホールではない。白い光がいたるところで光る、展示場の中だ。いつの間に戻ってきたのだろう、それも私一人で。そう思って近くに光る大きな水槽に近寄ってみる。たしかここはジンベイザメがいた大水槽のはず。しかしその水槽の中に私の知っているかわいらしい魚の姿はない。水槽の中を泳いでいるのは青白い光を帯びた骨。骨だけの魚たちが水槽の中を泳いでいる。ひやっと冷たい冷気があたりを満たしていてなんだかふわふわしてくる。私は水槽にもたれかかろうとすると後ろから突然ハンカチで鼻と口をふさがれ、もう一つの手で腰から手を回され動けないようにされた。私の肌に触れる手は少し冷たくて、びっくりして私は必死に手と足を動かそうとバタバタと抵抗をする。
「んっ―――ん!!」
何となく背中から感じる背丈や手の感じから相手が男だということはわかる。離せ変態!ロリコンめ!!……いや、ロリはもう卒業したか……じゃなくて!!苦しい!苦しい!!
「ん―――」
「ごめん。肩の力を抜いて。できるだけ空気を吸わないように」
聞き覚えのある声が耳元でささやかれ、私の体の力がふっと抜ける。その声はいつも優しくて温かい夕薙くんのものだった。私はゆっくり首だけで後ろを確認し彼のいつもの優しい笑顔が目に入り、安心し、目にじわっと涙がにじむ。彼は私の呼吸を抑えたまま片手でスマホの画面に何かを打ち始めた。
『何者かに幽世へ連れ込まれた 吸うと危険な気体が充満してる とりあえず元の世界に戻れる場所を探そう』
私はそれを読み終えコクリと頷き、口元のハンカチに手を回し、夕薙くんの手からハンカチを奪い取る。彼は私から離れ「こっち」というように私を見つめ、順路を進んでいった。二人で歩く展示会場はみんなと見に来たときとは違う雰囲気をまとっていて、まるで始めてきたような感覚がした。
「ここまで来ればもう大丈夫」
彼がそう言ったのは私達が元いた、誰もいない展示場を出たホールでのことだった。私も口元からハンカチを取り一気に酸素が私の中に流れ込んでくる。頭によく血が巡るのがわかる。
「ごめんね突然押さえ込んじゃったりして。一応それ、未使用のものだから……」
「あ、ううん。そんなの全然気にしてないよ。むしろ助けてくれてありがとう。新品買って返すね」
「いや、いいよ。もしかしたらそのハンカチにもさっきの気体が染み込んでいるかもしれないし、こっちで処分しとくよ」
「でも―――」
「だから気にしないで」
彼がそう言うならまぁいいか……と、私はそのハンカチを手渡した。その時、私のスマホがブルブルと振動した。画面を開けばユリちゃんからの大量のメッセージが送られてきていた。幽世って電波届くのか。ここを出るのにどれぐらいの時間がかかるかわからないため、私達は迷子になったことにして、二人に申し訳ないが先に帰ってもらうことにした。そのメールを送ったその時だった。
「―――もし、」
透き通った艷やかな高い声が聞こえて振り返ってみる。そこには華やかな着物を着て近寄ってくる美しい女性の姿があった。しかしどう考えても不自然なこの状況に私達は彼女を警戒した。
「あら、そんなに警戒しないでくださいな」
そう言って更に近づいてくる彼女の顔はどこか不気味で、夕薙くんが私をかばうように後ろに下げ、どこからか小さな刃物を取り出した。私も恐怖心を飲み込み手元に妖力を集め、日本刀を作り出した。
「あらやだ、いい男。―――もっとその顔、近くでよく見せてくださいな」
その瞬間、彼女は一瞬で夕薙くんの目の前まで距離を詰めた。もちろん彼がそれに遅れを取ることはなく、彼はすぐさま彼女の額に刃物を突き刺した。その刃には迷いがない。
「きゃあ!私の目が!!」
「目」。不思議なことを言う彼女はよろめき私達から距離を取った。そしてシュウシュウと音をさせてさされた部位から煙が出ている。そしてそこから皮が剥けだし、その素顔があらわになった。鋭く大きな二つの牙、真っ黒で白の部位がない8つの目。それはまるで蜘蛛を連想させた。
「私の美しい顔が!」
私はその恐ろしい姿を見て、息をのむ。そして彼は彼女の正体に気づいたようで「絡新婦」と呟いた。
「幸村さん、少し離れてて」
夕薙くんの声に私は瞬時に反応し、すぐに彼女から距離を取った。彼は彼女が反撃してくるのではないかと身構えていたが、彼女は違った。さっきまでの恐ろしい雰囲気はどこへ行ったのやら、突然おびえた表情を見せたかと思うと「いやぁぁあ!」と悲鳴を上げてあたりをのたうち回った。そしてボコボコと背中から蜘蛛の足をはやし、どんどん巨大化していく。そんな彼女に向けて彼は一枚の人形をした形代のようなものを向けた。不思議なことにそれは自ら中へ向かい絡新婦の額に触れた途端何十匹もの形代の鎖のような形に増えていった。
「これは―――離せ!離せぇ!!!貴様!また私を―――」
絡新婦は光を帯びたその鎖に縛られ身動きが取れないながらも必死にもがく。
「どこから湧いたか知らないけど、さようなら間抜けな絡新婦―――」
彼がそう言いかけたときだった。鎖の光がだんだん薄くなっていく。目を向ければ夕薙くんがなんだか苦しそうに胸と口を抑えている。やがて光は完全に消え、絡新婦はそれを見逃さず鎖を自ら断ち切って見せる。明らかにおかしな彼の様子に声をかける暇もなく絡新婦が攻撃を行おうとする。私はすぐさま彼のもとに駆けつけ、手に持った日本刀で絡新婦の足を何本か切り落とした。
「きゃあぁぁぁ!!私の手が!足がぁぁ!!」
「夕薙くん?!大丈夫?!」
「……うん。ごめ……だいじょうぶ」
「小娘!!よくも……よくもぉぉ!!!」
ただ事ではない彼の様子を見た私は途端に妖力の流れを感じ取り、それを気体化させてあたりに撒き散らすイメージをした。するとそれは想像通り煙幕のような役割を果たした。
「動ける?」
「……うん」
私達はこの隙に近くの飼育員通路へ逃げ込んだ。




