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最終章



◇◆◇◆◇


────紀内診療所では、中井雛と粕谷が残務処理に追われていた。

 翔冴がいなくなったこの診療所は閉院がきまった。

 気落ちした紀内夫妻は、見ていられないほど老け込んでしまい。粕谷は二人を元気つけようと毎日二人の話し相手になっていた。


「雛さん、これなんだと思います?」


 翔冴が使っていた電子カルテ機能がついたパソコンの事務処理をしていたところ、見慣れないアイコンが一つ混ざっていたのだ。

「SCAPEGOAT? 粕谷くん、開いてみて」

「はい。…………なんだろうな。って、こ……これ翔冴先生の?」





【SCAPEGOTE】





 犯した罪は命では償えない。

 だけど、この苦しみは死を持ってしか逃れられない。


 このみには、色んなものを与えてやりたかった。それは贅沢とか優越じゃなくて、もっと特別な何かを……こんな結果しか与えてやれないなんて残念だ。

 もしもまだ、このみと俺が存在していられたなら、世界中を二人で旅して色んな景色を綺麗だと眺めて、美味しい食べ物を美味しいと感じる。同じ月を見て、同じ星空に包まれて眠りたかった。

 このみは、あまり欲のない女だ。俺がプレゼントを用意しても物には興味をしめしてくれなかった。質素で慎ましく優しい愛情で包んでくれる。


 両親からの愛情なくして育った俺には、このみを愛しぬくのは難しかった。


 たくさんの失敗もした、たくさんの涙も流した。


 俺が犯した最大の失敗は、このみを裏切りその真実を隠してしまったことだろう。




 もう一人の、このみ────凛菜。


 君は本気で俺を愛してくれた。こんな形で君を利用して本当にすまないと思っている。

 もし、君が俺の望むことをしてくれたならば君の罪が少しでも軽くなるように祈っている。

 東京で君に会った時は本当に驚いた。整形手術を受けたその顔はあまりにこのみに似すぎていたからだ。

 俺は思わず「このみ」と呼んでしまった。生きたこのみにまた会えたと、君をあの屋敷に連れて来てしまった。

 君の寝顔を見るのが辛かった。君とずっと暮らしていくのが幸せかと悩んだりもしている。だけど、それは本物の幸せじゃない。


 凛菜を苦しめたあの男。確か大学の教授だと言っていたよな?


 ちゃんと警察に被害届を出すべきだと思う。君の顔に受けた傷跡が何よりの証拠だ。

 ここの県警に大槻という刑事がいる。信頼できる男だと思っている。彼に任せれば全て上手くやってくれるはずだ。のうのうと生きながらえている犯罪者に制裁を与えてくれるだろう。



 そして最期に、父と母へ。


 育ててくれてありがとうと言える程、俺は人間ができていない。未成熟だからこそ、あなた達が憎い。

 東京で政治家に収賄容疑がかかっていると報道されていた。俺はその政治家の名前に見覚えがあった。

 親に絶縁されるきっかけをくれた政治家だ。俺は密かに、この事件を調べていた。

 東京で秘書に会った。彼は俺をあなた達の仲間だと勘違いしていたんだろう。包み隠さず真実を喋ってくれた。

 架空の決算報告書を提出させ、容疑がかかるように仕向ける。


 あなた達も、立派な犯罪者だね。


 俺があなた達の仲間じゃないと知ったことで、自ら命を絶った若い秘書……彼はあなた達が殺した犠牲者だ。俺も共犯者だ。

 最後に家族全員で犯罪者になれたことをあなた達はどう考えるんだろうな。想像もできないよ。



「粕谷くん……これ遺書だわ。警察に渡しましょう」

「でも、まだ続きがありますよ」

 雛はキーボードを操作してページを閉じると、パソコンの電源を落した。

「これは私たちが読んじゃいけないわ。先生がそう言っている気がするの。私が大槻さんに連絡するから」


 粕谷は大きく頷いた。


「そうですね……寂しいですね。毎日、一緒に働いてきて僕たちは翔冴先生のこと何もわかっていない。翔冴先生が何か自分のこと僕に喋ってくれたことがあったかも思い出せない」

「そうね。私も一緒。優しい先生がいくなってこの診療所がなくなるのが寂しくて寂しくてたまらない……でも、先生が何を抱えていたのかわからない」


 粕谷はもう一度大きく頷いた。


 診療所には、持ち主のいなくなった真っ白で皺ひとつない白衣と聴診器が残されていた。







─────「珍しいね、このみがこんな場所で月を見たいと言いだすなんて」

 翔冴は、このみのしなやかな黒い髪に口づけをした。白いキャデラックの助手席で、このみは小さく微笑む。

「わがまま言って、ごめんね」

「かまわないよ。君のわがままは何だって聞いてやる」

 このみは、首を左右に振った。

「嘘じゃない」

「嘘なんて思ってない。翔冴はきっとどんなわがままだって聞いてくれる。ねえ、キスして」

「おやすいご用だね」

 髪に指を滑らせて、頬を撫でる。愛しくて愛しくてたまらない……可愛いこのみ。

 その薄い唇は、冬の寒さで震えていた。癒やすように優しく奪う。だけど、震えは止まらない。

「寒い? 暖房を強くしようか」

「いいの……外に出たい」

 このみは、翔冴の腕からすり抜けると車のドアを開く。車内の暖かい空気が、一瞬で冷たい空気と入れ替わる。


「このみ? 待てよ!」


 凍てつく寒さだった。崖の上は強い風が吹いている。

「このみ! 危ないから車に戻ってくれ……何を考えてるんだ!」


「翔冴、私ずっと考えていたことがあるの。お父さんとお母さんがいなくなって悲しいのに、お母さんを殺した犯人は見つからない。誰を恨めばいいのか、わからなかった」


「わかってる。だから、二人で乗り越えてきたじゃないか! これからも、そうやって生きていこう」

「この一年、此処に帰ってくるとあの事件のことばかり考えちゃうの。東京で暮らしたいってわがまま言って、翔冴に何度も何度も此処と東京の往復させた」

「そんなの全然、苦じゃない。このみに会えると思うと、君に会いに行く道のりすら俺は幸せに満ちていられた。このみが東京がいいと言うなら、俺も東京に行ってもいい」


 月明かりだけを頼りに、このみは崖を歩く。コートも着ていない。翔冴が手を差し伸べた。


 このみは、首を横に振った。


「このみ、こっちに来い!」


 このみは、翔冴をじっと見つめた。


 言葉がみつからない。


 これ以上、嘘を重ねたくない……真実を隠しては駄目だ……



「お母さんを殺したのは、お父さんでしょ?」


「このみ……」



「私だって子供じゃない! 私が帰ってくると仲が良さそうなふりをしていたの知ってる。そんなことくらいわかってた! お母さんが若い男を連れていたって話……」


「このみ! やめろ、全て話すから! こっちに来い!」


「嫌よ! こないでっ!」



 立ち尽くすことしかできない。こんなにも愛しているのに……

 取り返しのつかないことをした。



「お父さんがお母さんを殺したの、翔冴がそれを隠した!」


 激しい拒絶に、ただ立ち尽くした。抱きしめてやることもできない。


「翔冴のこと愛してる。私は本気で貴方を愛した。愛して愛して……そんな翔冴に嘘をつかせてしまったことが辛い」


「このみ……頼む。俺の手を握って、そしたら全部話す」


「翔冴の顔を見るだけで辛いの、好きで好きでたまらないのに翔冴に申し訳なくて……私は翔冴に愛される資格なんてない。ごめんね翔冴……」


 このみの足が止まった。もうその先には暗闇しかない……



「お母さんの不倫相手て、翔冴だったんだよね……私、何も気がつかなかった」


 翔冴には、否定ができない。


────幼い頃、部屋にいつも一人でいた。苦しい時はいつもこの残像が脳内に流れ出す。

 扉を開くと長い長い廊下だ。食べ物は用意されている。いい成績をとっていれば両親は「いい子」だと一言だけ褒めてくれた。


 廊下を駆け出して、本気で寂しいと何度も叫べばよかった。


 家から飛び出して、誰か助けてと必死に訴えればよかった。


 誰か俺を愛して、なりふり構わずただ抱きしめて欲しい……


 母親の愛情がどういうものかを、ただ知ってみたかった…………




 白く丸い月が見ている。絶壁の淵で、このみがナイフで自分の髪を切り取った。忘れ形見のように髪を束ねて足元に置いた。


 翔冴はあの髪が好きだった……綺麗だと、何度も撫でた……



「この髪、翔冴が好きて言ってくれた……」


「このみ、俺も一緒に……」


「一人でいいの……一人にして」


 短くなった髪が風になびく。それが、この世と翔冴への決別の証になる。




「ごめんね……翔冴」








SCAPEGOAT

THE END

西島美尋





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