追憶1
◇
大槻の記憶の中にある忌々しい事件。まだそれほど遠い昔ではないけれど、だいぶ時間が経過したようにも感じる。
明るい未来を絶たれた若い女性。彼女の笑顔はもう二度と見ることができない。
大槻がその夜、遭遇してしまった場面は被害者の婚約者と逃走中の加害者が鉢合わせになってしまったという最悪の事態。警察の責任逃れは難しいだろう。
被害者の婚約者である男は生気を失ったかのようゆらりと立ちあがり、逃走中の加害者は頭から血を流しながら両手をつき弁明を繰り返していた。
大槻は少し離れたところから、その二人の会話を聞いた。今すぐ確保しなければならない……だけど、それを行えば二度と被害者の怒りを直接ぶつけることができなくなる。自分たちの仕事とは、それを代わり、的確な処罰を与えること。けれど大槻の足は止まっていた。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と何度も謝る男を、黒いジャンバーを着た男が廃材を高く上げて、それを容赦なく振り下ろした。
『ぐわぁっ! 警察は助けてくれないのかよ!』
血を吹き流している男が大槻の存在に気がついていた。気がついて助けを求めている。自分が犯した罪を忘れて、どの口が、助けて、と言えるのだろう。
声が掠れた。地に根がはえたように足が動かない。
『俺は、もう全部失ったよ……大槻さん』
男が、大槻にそう伝え廃材を何度も何度も男の頭に振り下ろし、必死に詫びていた男は意識を失った。二度と目覚めることはなかった。
サイレンが鳴り響く。血まみれの男が、別の警察官に取り押さえられた。
ただ立ち尽くす。
顔を赤くした上司から怒鳴られた。腕を掴まれて警察車両に乗せられた。
自分が職務に背いてしまったという内容の自省書を書けと言われた。向こうで何を学んできたんだ? そう言われた。
────俺が間違っていたんだろうか?
「怪しい人影はないっすね、大槻さん」
退屈な防犯カメラを一通り見終えて、大槻は我に返る。
「遺体で発見された女は、別ルートで現場に行ったとは考えられないよな」
地図を広げた。穴があくほど、何度も見た地図だ。
彼女が飛び降りた崖までは、県道からしか行くことができない。その道は、田舎町の中心地を通り抜け、コンビニの前を通過して、海岸沿いの斜面をあがり、そして崖の横を通過して、その先は十キロ以上続く長い山道だ。
彼女が乗り捨てたとみられる車や自転車などは発見されていない。交通安全週間でその付近を何度も通り捜索してみたが、何年も前に乗り捨てられたタイヤのない自転車が一台見つかっただけだ。
崖から先の十キロ以上続く山道は、民家が数キロごとに点在するだけの道だ。このルートを乗り物なしで、越えたというのか?
でも、あのスニーカーでは有り得ないだろう。長い山道を歩いたような痕跡はなかったのだから……
「やっぱ、このカメラに映ってなきゃおかしいよな?」
「言われてみればそうっすね。コンビニの裏は山だし……あ、夏に土砂崩れがあったんすよ。あの時は、大変だったなー」
「被害者がでたのか?」
「まさか! 台風がきてたんすよ、この町の人間なら台風がきたら家から出ないのが当たり前です。昔から台風被害には悩まされてますから、危険な場所には近寄りません」
「ふーん、見上げたもんだな。警察いらなくねーか? 自殺以外の事件て起こったりすんのかよ」
大槻と並んで座り地図を見ていた坂田の顔色が暗くなる。
「起こったんですよ……実は」
声も暗く重い。大槻は、坂田の話に耳をかたむけた。
「まだ犯人も捕まっていません……あれからもう一年以上たちます。瀬尾家というこの町で一番裕福な家庭に何者かが強盗に押し入り、瀬尾家の奥さんが刺されて亡くなりました。事件から数日して、犯人も見つからずにご主人が身投げをしました。それ以来、自警団が発足したんです。警察もご主人の身投げには、かなり参りました」
「不幸を嘆いての身投げか……辛いな」
「瀬尾家には娘さんが一人います。事件当時、東京の大学に通っていたんですが、最近こっちに戻ってきたとか」
「娘? 生存確認してみるか」
発見された遺体は身元不明の女性だ。全国からあがる捜索願と照合している最中だが、めぼしい人物は特定されていない。
刑事の勘が大槻を突き動かす。
「教えてくれてありがとな。お疲れさん、遅くなってごめんな」
「え? もういいんすか?」
「ああ、また明日にするよ。あとは藤と行動する。どうせアイツが俺のお目付役だろ? 余計な報告書を書かせて悪かったな」
「お目付役って、知ってたんすか? でも、大槻さんみたいな人がなんで要注意人物なのか、俺にはサッパリ……」
坂田は余計なことを口にしてしまった、と慌てて口元を押さえる。
だけど大槻は差して気分を悪くするどころか、ニッと笑った。警察という組織をよく理解しているからこそ彼は笑える。自分みたいな失敗をした警察官がそういう呼ばれ方をすることもよく理解している。
「本庁にいた時……婦女暴行殺人の事件を追ってた。俺はたまたま現場に一番に駆けつけた。犯人の行動パターンを読んで、手柄たてようと一人で現場に行ったんだよ」
大槻は小さなため息をついた。こんな奴相手になんで昔話なんてしてるんだろうと思った。
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「でも、そこには被害者の婚約者もいた。犯人を待ち伏せしていたのは刑事の俺だけじゃなかった。いや、むしろあっちが先だったな」
「待ち伏せ?」
「復讐だ。愛する人を失った悲しみ、彼女の受けた侮辱。本来ならば、法廷以外で被害者遺族と加害者が顔を合わせることはないけど。でも、必死だったんだろう……犯人を見つけ出せない警察に嫌気がさしていたのかもしれない。警察の捜査なんて当てにせずに、自分の手で犯人を裁こうとして、そして見つけ出し追い詰め、廃材で犯人を殴った。それが打ち所が悪くてさ」
頭のいい男だった。機械メーカーのチーフエンジニアで、結婚式は事件の翌月。幸せの絶頂から、不幸のどん底への転落。
「それを……現場にいた大槻さんは止めなかった?」
「ま、そんなとこだ」
止められなかった。
自分の職務は理解しているのに、犯人の極めて自分勝手な謝罪文句に警察は加害者を擁護するための組織じゃない、あの男が罰を与えられるのが一番妥当だ、と思ってしまった。
本当は犯人を捕まえてやるのが最も正しい答えだったはずなのに、あの場で止めに入れば被害者はずっと自分を恨み続けると思うと怖くなった。
結果、被害者は加害者になり……自分は新しい犯罪者を作り上げてしまったのだ。
だけど、きっと、タイムスリップで過去に戻れるとして、あの場に戻ったところで、大槻はまた同じ過ちを繰り返すだろう。
「刑事には向いてないんだよ。近々クビかもしれないな」
大槻があえて明るい声を出したのに、坂田は気分を害したような複雑な表情をみせる。
「……俺には大槻さんが要注意人物になる理由がわかりません」
「なるだろ、被害者遺族より先に犯人を見つけ出すことができなかったんだから」
「そんなの……だって、他の刑事は何やってたんすか!」
大槻は、声をあげて笑った。
「お前は、俺の独白しか聞いてないからそんな風に思うんだ。そうやって物事を一方的に見るのはやめろ。それに、上には上の考え方がある。俺は警察官であるまじき行為をした。……って、こんな話したって報告書には絶対に書くなよな、ハハハ」
坂田は真剣に頷いた。
「俺の彼女がそんな目に遭わされたら、俺も犯人に殴りかかると思います」
「へー、坂田。彼女いるんだ?」
「はい、まだ十九歳っす。土産物屋で働いている真面目な子です」
「十九? 未成年かよ! 青少年保護育成条例に違反してるぞ、それ」
「ええっ? 悪いことはしてません! 酷いや、大槻さん信頼してるから話たのに!」
「それとこれとは話は別だけど、悪いことしてないってほうが逆に怪しいぜ。ま、でも内緒にしといてやるよ。今日はありがとな。車両のアドバイスも助かった。坂田が真面目に勤務してるのがよくわかったし」
手元のノートには、防犯カメラに映っていた坂田が知る限りの地元人が乗る車両の情報を書き込んである。台数は少なく彼女の身元を判断する材料になるかはわからないが、有力な情報に違いない。
坂田が先に捜査室を出た。時計の針は夜九時を通過していた。




