第十三話
【13】
――エリザベスなんて大嫌い!
闇の中で誰かが叫ぶ。甲高い声だ。子供の声だ。女の子の声だ。
かわいそうに、泣いている。とてもひどく泣いている。頬が赤く腫れている。ぶたれたのか? きっとそうだ。誰に? もちろん、彼女の両親に!
女の子ははりさけそうな胸をかかえて走っている。彼女の名前はドロシーという。ファミリー・ネームは? ソレイユという。
ともあれ彼女がそんなふうに叫んだとき、彼女の両親はとても怒った。走って逃げるドロシーをつかまえてしかりつけた。ドロシー・ソレイユがどうしたか? 彼女はどうにもできなかったのである。彼女の両親は、ドロシーがエリザベスのもとへ行き、きちんと頬にキスをして謝るまで許してくれなかった。
かわいそうな子! 真っ赤に腫れた頬を冷やす氷さえ与えてもらえないうちに、ドロシーは自分がいけない子だと認めなければならなかった。悪魔の子とののしられながら涙声で聖書を読み、二度とエリザベスをいじめないと約束しなければならなかった。もしそうしなければひどいお仕置きが待っている。狭くて暗い納戸が待っている。ドロシーは暗いところが嫌いだった。狭いところも嫌いだった。だからあのおそろしいお仕置きをされないために、ドロシーはエリザベスに謝らなければならない。
だが、いったいいつ、この哀れなドロシーが彼女の妹をいじめたりしただろう? 彼女はもちろんエリザベスに――リズにひどいことをしたことなんて一度もなかった。けれどそれを弁明する機会を与えられたこともまた一度もなかった。ドロシーの大きな両目にあれほど涙のたまっていたのが、彼女の両親には見えなかったというのだろうか? 彼女のつま先がもじもじと動き、小さな手がきつく握り締められていたことが、いったいどうして見えなかったというのだろうか。かわいそうなドロシー・ソレイユ、彼女の心は張り裂けそうなほど痛んでいるのに、彼女の心を誰も受け止めてやらなかった。
そのあとドロシーがどうしたか。彼女は部屋にこもり、ベッドに倒れ込んで、ひどく泣いた。なぜドロシーがそうしたか、両親はついに聞いてくれなかった。どうして彼女はエリザベスに向かって大嫌いなどと叫んだか? それは非常に重要なことのように思われる。
それは今、まだ鼻をぐすぐすいわせているドロシーが(すぐそこにハンカチがあるのに彼女はそのことにさえ気づいていない)ポケットから取り出した、ちょっとした小さくて綺麗なものに関係があるようだ。よく見てみることにしよう、さあ、それは何だろうか?
玩具の置物である。ガラスかもしれない。いや、よく見ると真鍮製である。ちょっとした置物だ――ほんとうにちょっとした、他愛のないガジェット。どこか小さな雑貨屋の店頭に、さほど高くない値札とともにそれとなく置いてあるに違いない。それはどうやら孔雀の形をしている。羽根をひろげた孔雀である。羽根にも胴にもいちめんにガラス玉やジルコニアのように光る石がたくさん埋め込まれているので、この部屋のほんの少しの灯りを反射してキラキラ光っている。とても綺麗である。
とりわけ綺麗なのはその一対の瞳だった。海のいちばん深いところの色、あるいは太陽系の果てにあるネプテューヌの色、彼女にこれをくれた人は色々な言葉でこの美しい蒼を言い換えた。ドロシーはどれも好きだった。
この孔雀はとある青年が彼女にくれたものだ。ほんの短い雨宿りのお礼に。それは、こういうことだ。
あるとき、通り雨に降られて困っていた二人のお兄さんが彼女のうちの玄関先で雨宿りをしていた。ちょうど一人で留守番をしていたドロシーは、窓から身を乗り出して二人に話しかけてみた。二人はとてもびっくりした。あのときの顔ときたら! ドロシーはよく覚えている。
三人はそれからすぐに仲良くなった。一人はのびほうだいの金髪で、なんとなくだらしない様子の、仔犬みたいなお兄さんだ。でも彼はとても穏やかな話し方をした。時々しゃべりながらほんのちょっと考え込むようにする癖も、ドロシーはすてきだと思った。もう一人は黒髪で、少し恐そうだったが、いくらか会話をするうちに、ただとても気まじめなだけだとわかった。一人はクインシー、もう一人はミシェルといった。
クインシーは売れない画家で、ミシェルは教師だった。二人はデルミナヨ通りのアパルトマンをシェアして暮らしていると教えてくれた。「なにしろ僕は売れていないから」とクインシーが言い、「彼は僕が傍で見ててやらないとシャツのボタンもとめられないんだ」とミシェルが言った。それはきっと本当だとドロシーは思った。
ドロシーは二人がとても気に入った。「もし嫌じゃなければ、また会えると嬉しいわ」と言ってみた。クインシーはもちろんそうするよと言い、ミシェルは約束できるかわからないけれど努力してみることにするよと、たいへん彼らしい言い方をした。
「それにもし君が遊びに来たら、僕の絵を見せてあげるとも。忘れないで、デルミナヨの七番地だよ。ぼろっちい建物だからすぐに分かるさ」
ドロシーは喜んで約束するところだった。そうして遊びに行ったり、招いたりして、友達になれると思ったからだ。ところがそのとき、ちょうど頭の奥で嫌なものをいっぱいつめた風船がパチンと割れるように、彼女の両親のことを思い出した。――出掛けるですって! 自分の意思で! そんなことがどうしてできるだろう?
思い出してしまっては、もうだめだった。楽しかった気分が急にしぼんでしまった。「それはすてきね」と言うのが精いっぱいだった。
ドロシーは時計を見た。たぶんもうすぐ両親が帰ってくる。妹のリズに買ってあげた山ほどの服や髪飾りや人形をいっぱい抱えて帰ってくる。そのなかに私にくれるものは一つもない。それどころか、知らない人とこうして話をしているところなど見つかったら、どれだけ怒られるだろう? きっと荷物をその場に放り出して、私をつかまえて、あの狭くておそろしい納戸に閉じ込めてしまうに違いない。そしてまた、悪魔の子である私は声が枯れるまで聖書を読まされるのだ。
いつの間にか雨はあがりかけていた。灰色の雲の隙間から金色の光が幾筋も差し込んで、うっすら虹がかかっている。雨上がりの空はいつでも交響詩の終わりによく似て、壮大で美しい。
「それじゃあ、僕らはこれで」
とクインシーが言った。「どうやら帰れそうだ」
ドロシーは寂しくなった。彼らはここでお別れしてうちへ帰ったら、私のことなんて忘れてしまうのじゃないだろうかと思ったからである。それはとても悲しい想像である。
ドロシーはすっかり彼らに惹かれていた。この人たちはとっても素敵! それにひきかえ、私はパパとママにいつひどい目にあわされるかとびくびくするばっかりで、楽しいことなんてちっともない。この人たちともしお友達になれたなら、毎日が少しはましになりそうな気もするのに。それにはどうしたらいいのだろう?
するとクインシーは、ポケットから何か小さくて綺麗なものを取り出した。そしてそれを、ドロシーの小さい手のなかに落とした。
「雨宿りのお礼に」
と彼は言った。ドロシーがゆっくり手を開くと、キラキラ光る孔雀が羽根をいっぱいに広げていた。ドロシーはまるでそれが彼女の心臓そのものであるかのように、大事に胸元に握りしめた。「なんて綺麗なの!」
ドロシーはため息とともに叫んだ。とりわけその眼は、信じられないほど深く美しいブルーだった。「これはなんて色?」
「ウルトラマリン。いちばん深い海の色さ」
と彼は答えた。あるいは、「宇宙にそいつとそっくりなのが浮かんでいるよ。綺麗だけどずいぶん遠いのがいけない。だからこうして近くで見られるようにしたんだ」とも言った。ドロシーは目をみひらいた。また、「その色に魅せられた画家がいてね。オランダに行くと彼が描いた少女に会える。彼女のターバンの見事な色ときたら……」
ドロシーはわくわくしながら聞いていたが、そのうちに、ミシェルが「いけない!」と小声でつぶやいた。
「もう三時だ。僕らはイヴと待ち合わせしてるじゃないか」
「それはいけない。僕は今月に入ってから彼女との待ち合わせに遅れなかったためしがないんだ」
「せめて今年に入ってからというべきだね」
二人は急にあわただしく駆け出ていく。途中、クインシーが振り返り、手を振ってくれる。彼はちょっと気取って、「それじゃあまた雨が降るまで」といった。
ドロシーも夢中で手を振る。やがて金髪あたまと黒髪の二人連れが見えなくなったころ、ドロシーはそっと手を開く。手の中に、雨の後のきらめく太陽に照らされて輝く、美しい孔雀が息づいている。
彼女はその蒼い瞳にそっとキスをする。