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第十二話


 【12】


 シャコンヌのように退屈な時間が流れ、パルティータのように不機嫌で憂鬱な雨が降る。あらかじめ述べておくがこれはただの自由で感傷的な比喩である。この表現をするのに、シャコンヌが退屈である必要はなく、パルティータに関するいくつかの約束事が履行される必要はない。それはきわめて自由で、理不尽で、不条理で、未発達な、未熟なひとつの種である。


 クインシー・ロレンスは雨の街を歩いている。

 みな挨拶をして通り過ぎる。やあロレンス、ご機嫌いかが、あらロレンス、今日もすてきなシャツだこと、こんにちはクインシー、次はいつうちへ遊びに来てくれるのかね? クインシーは笑顔でこたえる。もちろん、中にはそうしないものもいる。たとえばネコは誰に対しても、どんなときも干渉したがらない。ネコは誇り高く、美しく、孤独であることを何よりも尊んでいる。さきほど曲がり角で出会ったとき、彼らはお互いにまったく気に留めないふりをして、とても上手にすれ違った。ネコはひげをのばして歩いていった。その後でクインシーがこっそりとほほ笑んだことをもちろん知らない。

 街の人々を彼はよく知っている。人も人でないものも知っている。彼はただ歩いている。そうするうちにだんだんと何もかも灰色に見えてくる。影絵のように折り重なってうごめくゴーストの群れのなか、クインシー・ロレンスが歩いている。

 彼は街のなかをすたすたと歩く。彼の歩幅は颯爽と広く、彼の足は決して迷わない。あらゆるものにぶつからず、あらゆるものに目を留めない。手には何も持たない。傘もない。

 ときどき空を見上げる。渦巻いた灰色の雲の真ん中に、真っ蒼な目玉がのぞいている。夜の空の月のように、だまってあとをついてくる。少しばかり不機嫌そうな瞳である。彼は素知らぬ顔で真っ蒼な瞳を連れて歩く。彼は知っている。なにを? この目玉が見ていることを。なにを? もちろん、クインシー・ロレンスを!

 彼の顔に表情はない。何も変わらない。いつもどおりおだやかに曲線する眉が、なだらかな額のなかにある。彼はなにを考えているか? 目玉のことである。彼の頭上の、ラピスラズリのように真っ蒼な、あの目玉のことである。彼のなかには疑問がある。その種がある。誰にともなく、自分にともなく、ほんのちょっとした――きっと取るに足りない、おそらくは他愛のない、だがほんのちょっとした疑問がある。それは何か? おおむねこういったようなことである。

「目玉ってのは必ず持ち主がいるものではなかったろうか」

 クインシー・ロレンスは、雨の中を歩いている。


 ***


 ミシェル・ルグランはこの日も一人で目を覚ます。時々あることだ。彼が一人で目を覚ますときは、彼の世界からふだんよく知る一人の人物が消失することについては、さきに少しばかり述べたとおりである。だが今日はいつもと違うことがあった。彼はベッドから起き上がるとすぐに、同居人の姿を探した(きょうは、彼は衣服をつけていた。ベッドで眠るにしてはいやにきちんとした上下を身に着けていたが、彼はさほど気にしなかった。だらしのない恰好よりはいくらもましなのだ)。クインシー・ロレンスのことを、彼はおぼえていた。

 するとどうだろう。これまで、彼がクインシーのことを忘れていた時には同じように忘れ去られていたもの――とある記憶の都合のために消失せざるを得ず、可哀想に時空の隙間に落っことされていたものが、このときを待っていたかのように、見る間に部屋にとりもどされた。

 一人がけだったベッドもソファも二人分の大きさを取り戻した。ナイフも、フォークも、スプーンも、皿も、あらゆる品々がもとのあるべき位置を思い出した。しかしその変化は奇妙だった。彼はシングル・ベッドがダブル・ベッドの大きさに『ふくらむ』あるいは『広がる』ところを見なかった。その変化をさえ彼ははっきりと認識しなかった。おそらく物理的なあらゆる法則が無視された。まるでどこからか絵筆が伸びてきて、ちょいと塗り直していった、そういうふうな変化である。そしてその絵筆がまたどこぞへ消え失せてしまうと、もうずっと前からそうだったように思われる。このベッドがシングル・ベッドだったことなんてまるで一度もないように感じられる。食器棚のなかにだって、もうずっと前から、きわめて日常的に、食器もカトラリーも二人分きちんとあったのだ。そんなふうに感じられる。ミシェルは頭をふる。

 変わらないものが一つあった。部屋の窓際、床の上に、奇妙で理不尽な芸術がある。それは先刻の変化も素知らぬ顔でそこにありつづけた唯一のものである。彼はこれまで、クインシーを忘れていたときにも、この床の絵が消失したことは一度もなかったのだと推測する。何しろこの間までの僕は、彼を忘れていたということすら忘れていたのだから、そのあたりはなんとも危なっかしいものだが!

 ついこのあいだ――はて、いつのことだったか――たぶんそう遠くもない――やはり一人きりだった日、彼は何か見たことを思い出す。それはなんだったか? 彼はやがて思い出す。それはこの絵の具の塊からもたらされた。彼の目にはそう見えた。それはなんだったか? やがて彼は思い出す。

「一人の女の子が出現した」

 わざと文語的な表現をもって、彼はきちんと単語を区切って発音した。彼は自分の声を聞き届けた後、しゃがみ込んで、その指先で絵の具のてっぺんに触れた。するとその瞬間、ぼんやりとした燐光を見たような気がした。彼はべつだんその光を避けるためでなく、ただ生理的な欲求のために短いまばたきをした。

 一度目をつぶり、また開けると、そこに一人の女の子が立っていた。

 彼女はいくらか透き通っていた。髪は巻き毛の蜜金で、長く、ふわふわと波打っていた。実際、何かとてもゆるやかな風に吹かれているように、少しばかり、たとえばほつれた糸のようにそよいで見えた。そして、いつかと同じように、今、ミシェルの顔を大きな瞳でじっと見つめていた。


 ***


 クインシー・ロレンスはやがて時計塔にたどりつく。彼は雨にぬれた灰色の石壁をじっと見上げる。手を触れると冷たい。彼がそうしていることを、誰かが気に留めるだろうか? 誰も気がつかない。会えばいつも気軽に声をかけてくるあらゆる者が、今は彼をとおりすぎる。まるで見えていないようだ。認識の外。それは何かに似ている。

 クインシーは壁に手を触れたまま、あたりを見回す。灰色の影が重なり合い離れながらぼんやりとうごめいている。背高のキリン、威厳に満ちたイヌ、移り気なハト、傘をさした美しい御婦人、駆けていく子供、ステッキを手にしたりっぱな紳士、みな灰色の影になってゆらゆらとうごめいている。音もゆらめいている。水の中で聴く鐘の音のように、かすかな喧騒が反響している。彼はそうっと頭上を見上げる。雨粒がいくつか顔に当たる。灰色に渦巻いた雲の真ん中から、あいかわらず蒼い瞳が見下ろしている。実に真っ青である。瞳も虹彩もない。

 彼はふとひらめいた。――時計塔!

 彼は頭上の蒼い目と時計塔の石壁とを交互に見比べる。やがて、はしごをつかみ、脚をかける。彼は時計塔にのぼることにする。キリンはいないが、かまわない。はしごがあるのだから。

 この時計塔がもし――、彼は考える。もし、僕の眼にしかうつらないとしたら?

 そうだよ、だって僕のほかにこの時計塔を見た者はどうやらいないのだ。みんな何と言った? 思い出してみよう。この街に時計塔なんてものを見たためしがないといったんだ。あの御婦人も、イヌも、そう言った。でも僕には見えている。僕はこの時計塔を見なかったことは一度もないのだ。こうして手を触れている、あげくのはてにはこうしてはしごをのぼることだってできるのだ。なぜか? 

「もちろんそれを考えなけりゃならない」

彼はつぶやく。

「何か理由があるはずだ。だって――なんだっけ、物事にはなんだって理由がなけりゃいけないんだ。そうだろ?」

ではそれは何だろう。彼はいくらかゆっくりともう一度空を見上げる。ふと、彼の瞳がわずかに見開かれる。これだったのではあるまいか?

 あの蒼い目玉――あの目玉! あんな馬鹿みたいに高いところにあるものに、こんなに興味を惹かれちまっているのはどうやらこの街で僕だけだ。そこへ来てどうだろう、この時計塔ときたら、ずいぶんとおあつらえむきではあるまいか! まして、どうやらその馬鹿みたいに高いところにある蒼い目玉に、もしかしたら手が届かなけりゃならないかもしれないなんて馬鹿みたいな事情を持っているのも、どうやらこの街で僕だけなのだ。どうしてそう思うのかまるで見当もつかないが、僕は、あの目玉に手が届かなければならないような気がしているのだ、何故かはわからないが……あれに触れることが必要だと感じられるのだ。だいたい僕のほかのいったい誰がそんな馬鹿なことを考えるだろう? 雲の真ん中にぽっかり目玉が浮いているなんて! 

「僕はそれほど勘の鋭い方じゃないんだよ」

 クインシーは頭を振った。水しぶきがいくらか散った。

「もし何か僕に伝えたいことがあるのなら、はっきり言ってくれなくちゃわからない。でも、どうやらそっちから降りてきてくれるつもりはないのだろうね」

 クインシー・ロレンスははしごをのぼる。地上にうごめく灰色の影の群れを置き去りに、どんどん高くのぼっていく。やがて彼はてっぺんにたどりつく。垂れこめる灰色の雲が近い。彼は感嘆する。空ってのがこんなに近いところにあっただなんて! そら、手が届きそうじゃないか。彼は手を伸ばす。蒼い目玉にもうすぐ触れる。それにしても空ってのはこんなに近いものだったかな?

 彼は手を伸ばす。その指先には絵の具がこびりついている。


 ***


 ミシェル・ルグランは女の子に手を伸ばす。恐る恐る、だが決意を持って手を伸ばす。女の子はじっとミシェルを見上げている。やがて彼女の手がゆっくりと持ち上がる。実に細い、きゃしゃな、ロウのようにすべらかな手だ。足の爪と同じように、十ならんだ手の爪も貝殻のような美しい光沢をもっている。ゆっくりと持ち上がる。

 やがて二人の指先は、二人のあいだで出会う。









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