第十一話
【11】
双子はようやくエンダイーヴ・コリーを見つけた。
エンダイーヴは肩をおとして歩いている。まるで途方に暮れているようだ。何があったのか? 双子にはそれはわからない。彼女は傘もさしていない。彼女は迷わずに歩いていく。双子は小走りにおいかける。建物のすきま、路地、屋根の下、追いかけっこが始まる。
そういや彼女はどこに住んでいるのだったか? 誰も知らない。あのミシェル・ルグランとクインシー・ロレンスだって、彼女があの狭くてぼろいアパルトマンで、ミシェルのピアノにあわせて歌を歌っているほんの何時間かのほかには、彼女がどこでどうしているかなんてことは知ってやしない。何度だって言う必要がある。それがこの街のルールだからだ。
ほっそりした脚が幾度もフラミンゴのように折れ曲がる。彼女はまるで踊るように歩く。彼女の履く靴のヒールはとても高く、それでよけいに彼女のすがたは華奢に見える。ときどき水を跳ねあげる。でも、決して彼女の靴と脚は、泥に汚れることはない。気のせいか、まるで向こうの景色が透けて見えると思うほど、彼女の様子は頼りない。
リズリヴェッラは息を切らせてささやいた。「あんなに速く歩いたりして!」
リズリヴェートも息を切らせて言い返す。「僕らが遅いのさ。こんなにちびなんだから仕方ない」
「私もうだめよ。それでなくたってここのところずっと具合がおかしいのに、こんなに走ったら死んじゃうわ!」
「ばかだな僕らが死ぬもんか」
リズリヴェートは走りながら肩をすくめる。彼は実に器用なので、これくらいのことはなんでもない。ところがリズリヴェートは、自分の声が耳に届いたところで、ふと眉をひそめる。彼は眉間にしわをよせ、幼い指で自分の唇に触れる。「僕は今、なんだか奇妙なことを言ったかい?」
「この街じゃなんだって奇妙なのよ。なんですって?」
リズリヴェッラが気もそぞろに返事をする。そんな片割れを、リズリヴェートはじっと見つめる。何かその奥にあるものをよく見ようとするように、じっと見る。
「ヴェッラ、君は、死んじゃうと思うの?」
リズリヴェッラは大きな瞳をまたたいた。それからしばしあって、まるでどこからも予想のつかない、おそろしく突拍子もないことを聞いたように、大きな声で「なんですって?」とまた言った。
「死ぬだなんて――死ぬ! 私、そんなおそろしいことを口にしたの? リズ、私のリズ、私たちが死ぬなんてこと、まさかあるはずないってのに! あら! 私、どうしてそう思うの?」
それがなにかの合図になったかのように、双子はどちらからともなく立ち止まる。リズリヴェートはリズリヴェッラをじっと見つめる。リズリヴェッラはうつむいて、とまどっている。彼女の髪の先が揺れ、彼女の瞳が揺れている。二人の足音が消え、黙りこむと、とたんに雨の音が割り込んでくる。
リズリヴェッラはやがて顔をあげ、リズリヴェートの顔を見る。双子はしばし見つめ合う。心臓は早鐘をうち、まつげはせわしなく震えている。
今、この双子にも、神秘の一滴が落ちかかっている。エンダイーヴ・コリーにもたらされたのと似て非なる、だが本質を同じくする雫である。その内側には目覚めがある。目覚めと、気付きとがある。その雫をふくらませるほんのわずかな力が、今、きらめいている。
「ともかくジョルジェットに追いつかなけりゃ」
リズリヴェートは走りだす。少し遅れて、リズリヴェッラも走りだす。今度は、彼女は文句も言わずに走りだす。いま、二人の心には得体の知れない不安がある。なにか変容している。なにか隔たれた。それは予感である。拍動する心臓の奥で、けたたましく鐘が鳴る。もう戻れない。戻れないが、果たしてここはどこなのか、双子はそれがわからない。どこへ飛び出してきてしまったの? あわれな双子は震えている。まるで群れを失った子羊のように、嵐の前に取り残された雛鳥のように震えている。ほんの何気ない一言――ごく小さな、取るに足らない、ほんの小さな種!
ゼロが一になり、ほんの小さな柵はとびこえられた。ほんの小さな柵、だが決定的な柵、それを超えるとどうなるか? 戻れなくなるのである。子供が大人になったあとで、二度と子供になれないように。知らなかったことを知ったあとで、知らなかった頃に戻る道がないように。疑問を持つことは真であり偽である。疑問を持つことはおそろしい。なぜならそれは思考者を外側へ引きずり出すからである。なんの外側か? これまでの一番外側だった部分の、さらに外側である。それは目覚めであり、変容であり、綻びだ。
路地を抜けたところで、ジョルジェットはカツンと高い音をたて、急に立ち止まって振り向いた。その目がおどろいたように見開かれ、その口が何かを言うためのように開かれかけた。双子もまた立ち止まった。こういった場合にきわめて適正なある一定の距離をおいて、ジョルジェットと双子はほんの数瞬ばかり対峙する。やがて両者は同時に何かを言いかける。だがそれはなしとげられない。彼らは互いの声を聞かない。
ジョルジェットが手をのばした。なぜ? 双子が消失したからである。
リズリヴェッラ、リズリヴェート、よく似た名前を持つよく似た双子は、まるで雨に溶けるようにかき消えた。ジョルジェットは自分にむかって差しのべられた幼い手に手をのばしたが、その指先はあとわずかでふれあうところで、空を切った。消失する寸前の、幼い双子の不思議そうな顔の印象だけが彼女に残った。二対の大きな瞳がこちらを見ていた。
ジョルジェットはふっつりと糸の切れるように、その場に膝を折った。引っ込められるときを失った手が中途半端に伸ばされたままである。その爪はどれも綺麗にマニキュアされて輝いている。
やがてジョルジェットは低い声で呟いた。
「あの子たちは私と決して出会えない」
自分自身に言って聞かせるように、ジョルジェットは一言一言、単語を区切って発音する。「考えなけりゃいけないわ――彼は何て言った? そうさせるもの――いったいなんだっていうの? いいえ、だめよ、考えなけりゃいけないわ。ミシェル・ルグランは、そう言った……」
彼女は座り込んだまま空を見上げる。灰色の空に灰色の雲が渦巻いている。ほかに見えるものはない。なにもおかしいところのない、いつもの空が広がっている。
その灰色のひだの間から、途切れることなく雨が降っている。穏やかな彼女のオークル色の肌を濡らし、瞳を濡らし、髪を濡らし、さっきまでそこにいた双子のかすかな気配を洗い流す。
***
同じころ、クインシー・ロレンスも窓から空を見上げている。灰色の雲の真ん中にあいた、大きな目玉を見上げている。彼は、食事の用意をしているミシェル・ルグランを呼んで尋ねる、「空になにか見えるかい?」
同じように窓から空を見上げながら、ミシェル・ルグランは答える、「あの青いでっかいのは何だろうって訊きたいのかい? わかるもんか」
「ずっとああして僕を見ているんだよ」
「君を?」
どうしてわかるんだい、とミシェルはおたまをふりながら尋ねる。クインシーは答える、「だってどこに行ったってついてくるもの」
「君ってのは実におめでたい男だよ」
「ミシェル、ちがうよ。あれは僕を見てるんだ。目玉なんだよ。そう見えるだろ?」
クインシーがめずらしくむきになって反論する。ミシェルは窓から身を乗り出す。渦巻いた灰色の空の真ん中に、巨大な蒼が浮いている。あの色はなんだろう。ラピスラズリ? そんな色がたしかあったはずだということをミシェルは思い出す。彼は美術には詳しくないので、絵の具の色の名前なんてものはいちいち知らない。でもあの色のことは知っている。なぜ? 見たから。どこで? もちろんクインシー・ロレンスだ。彼が床に描き散らかす絵の中に。
「目玉」
ミシェルはつぶやく。クインシーはうなずく。「そうさ」
ややあって、ミシェルはまたつぶやく。
「――誰の?」