第25話 勇者の仕事
雨上がりの朝だった。
アウグストは珍しく窓際ではなく、騎士団本部の廊下を歩いていた。怪我と風邪の経過報告のため、呼び出されて来ただけの用事である。診療室を出たところで声がかかった。
「終わったか」
レヴァインが壁にもたれて腕を組んでいる。
「終わった」
「なら来い」
「なぜだ」
「団長命令だ」
アウグストは何も言わず歩き出した。
執務室の扉が開くと、セシルが机の前にたっていた。そして視線の先には、山のような書類。
アウグストは一度だけ見て、見なかったことにしようとしたが遅かった。立ち去ろうとした瞬間、声が飛ぶ。
「待ってください」
「嫌だ」
レヴァインが吹き出す。
「見ただけで察したな」
「縁談の書類だ」
「正解」
正解したくはなかった。
侯爵家、伯爵家、大商会、名門騎士家。整然と積まれた紙の束を見ながら、セシルは疲れた顔で額を押さえる。
「今月分です」
「燃やせ」
「駄目です」
「返せ」
「すでに返してます」
「なら問題ない」
「あります」
押し問答はどこまでも平行線だった。
レヴァインが面白そうに肩を揺らす。
「世界救った英雄なんだから、少しくらい興味持てよ」
「ない」
即答だった。
アウグストは窓の外へ視線を向ける。訓練場では騎士たちが木剣を振っている。剣の方がずっと単純だった。知らない誰かと結ばれる話より、剣の軌道の方が単純だ。
セシルの声が再び飛ぶ。
「聞いていますか」
「聞いている」
「聞いていませんね」
正しい指摘だった。
やがて諦めたようにセシルが息を吐く。
「今日はもういいです。帰ってください」
「帰る」
即座に扉へ向かう。
「待て」
今度はレヴァインだった。嫌な予感がする。
「訓練、付き合え」
十分後、訓練場。
若い騎士たちは期待に満ちていた。勇者と手合わせできる機会など滅多にない。
二十分後には、そのほとんどが地面に倒れていた。
「遅い」
「はい!」
「甘い」
「はい!」
「考える前に動け」
「はい!」
返事だけは妙に元気だった。
「今日、やけに厳しくないか」
セシルも腕を組む。
「確かに普段より容赦がないですね」
気づけば訓練場に立っている者はいなかった。
アウグストは首を傾げる。
「弱いな」
「お前基準で語るな」
即座に返された。
帰り道、レヴァインが隣を歩く。
「で、機嫌悪いのか」
「悪くない」
「そうか。道具屋行くんだろ」
足がわずかに止まる。ほんの一瞬だけだったが、レヴァインは見逃さなかった。
「行く」
「だろうな」
からかうような声だった。
だが空を見上げると、日は傾き始めていた。閉店には間に合わない時間だ。少し考える。ほんの少しだけ。
「帰る」
そう言って方向を変えた。
「珍しい選択だな」
レヴァインの声を背に、王都の大通りを進む。
邸宅はいつも通り静かだった。
広い廊下を歩いても、耳に入るのは自分の足音だけだった。ふと、工具を削る音が頭をよぎる。
もちろん聞こえるはずもない。本を読んでいても、時間を区切る声はない。それが当たり前のはずだった。今までは気にならなかった。
その夜、読みかけの本を開く。犬のしおりが挟まれている。指先で軽く触れ、外してページをめくる。旅人はすでに次の街へ進んでいた。少しだけ安心する。本を閉じ、しおりを戻す。ふと、窓際の席が浮かぶ。静かな午後、薬草の香り、工具の音、窓から差し込む光、木彫りの犬。アウグストは静かにしおりを見つめる。
明日は図書館へ行ってみようと思った。本がたくさんある場所らしい。……道具屋からも近かった気がする。どんな本があるか気になっていた。
しおりを挟み直して本を閉じる。
小さな犬は、本の間で静かに眠っていた。




