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第12話 わびぬれば 今はた同じ 難波なる

 みおは、はっと飛び起きた。勢いよく身を起こした拍子に椅子が軋み、静まり返った館内に乾いた音が響く。


 一瞬遅れて、ここが旧館の図書館であることを思い出した。


 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 胸の奥で、何か引っ掛かりを覚える。ただ眠っていただけではない気がする。


 そうだ――確か、何か夢を見ていたはずだ。だが、その輪郭はうまく掴めない。


 何か、とても大事な夢を見ていた気がする。それなのに、思い出そうとすればする程、その光景が白くぼやけていく。


 ひどく胸がざわついた。


 ふと、視線が机の上に落ちた。澪の目の前には、二枚の栞が並んで置かれている。


 見覚えのないそれらに、澪は小さく眉を寄せた。こんなもの、持っていただろうか。


 訝しみながらも、澪はそっと二枚を手に取った。


『契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは』


 一方の表面には、墨で和歌が書かれていた。裏返すと、そこには何本もの古い松が並んだ丘の絵が描かれている。どこか、見覚えのある景色だった。


『めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半よわの月かな』


 もう一方の栞にも、このような和歌が書かれていた。こちらも裏には雲に覆われた月のイラストが描かれていた。


 その瞬間、澪の胸の奥で、何かが音を立てて繋がった。


 松の丘と、潮の匂い。響く和歌の声と、彼女の名前。白い靄。触れた唇。最後に見た、彼女の貼り付けたような笑顔。


 紫乃しの――月雲つきぐも紫乃。


 全てを思い出した。いや、むしろ、なぜ一瞬でも忘れかけてしまったのだろう。


 澪は、手の中に収まった二枚の栞を見つめた。


 あれは夢ではない。澪は確かに紫乃と出会い、そこで恋に落ちた。この栞が、それを告げてくれているような気がした。


 胸の中に戻って来た記憶は、安堵よりも先に痛みを連れて来る。あの靄の中で、紫乃は確かに言っていた。これ以上巻き込めない、いつまでも愛している、と。


 しかし、そんな言葉で終われるはずがなかった。あんな顔で別れを告げられて、平気でいられるはずがない。こんな別れ方で、いいわけがない。


 ――もう一度、紫乃と会わなければ。話さなければ。そうしなければ、何も解決しない。これでは澪も紫乃も、ちっとも救われていない。


 不意に、別れ際に紫乃が詠んだ歌が、耳の奥に蘇った。


 澪は二枚の栞を見比べる。そのときに紫乃が詠んだのはこちら――「めぐり逢ひて」だったはずだ。


 机の上に置かれていた本を引き寄せ、急いでページを繰る。目当ての歌を見つけると、そこで手を止めた。


 ――めぐりめぐってようやく会えたのに、見たのがその人かもわからないほど短い時間で帰ってしまった。まるで雲隠れしてしまった真夜中の月のようだ。


 その歌の現代語訳に目を通し、胸の奥がひやりとした。


 紫乃はきっと、この別れの歌をあの場に重ねて、澪を突き放したのだ。


 なぜそんなことができたのか、それはこの字面を見ていればすぐにわかった。


 歌の中に含まれた「雲」と「月」の文字。そして、作者の名前に含まれた「紫」の文字。彼女――月雲紫乃の名前と重なる。


 自分の名前と結び付いた歌ならば、呼び出すことができるのかもしれない。言葉が強い世界ということは、当然名前が持つ意味も強まるのだろう。そう考えると、この仮説も腑に落ちた。


 それならば――


 思い至った瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 自分は――波元なみもと澪はどうなのだろうか。この名前にも、何か結び付く歌があるのではないか。


 澪は本の冒頭まで戻り、順にページをめくる。一つ一つの和歌を追っていく。


 ――これでもない。これでもない。


 どれ程進んだ頃だっただろうか。不意に澪の手がピタリと止まった。


 ――これだ。


 喉の奥で、声にならない呟きが漏れた。


 ――これならば、もしかしたら。


 澪ははっとして、また二枚の栞に視線を向けた。


 もし自分にも、名前と結び付いている歌があるのだとしたら。


 今まではただ、あの和歌の世界の名残だとしか思っていなかったこの栞は、つまり――


 澪は勢いよく立ち上がった。椅子が大きく鳴り、静かな空間に鋭く響く。栞をポケットに押し込み、本を抱きかかえると、澪はそのまま図書館を飛び出した。


 急いで確かめたいことがあった。もし自分の考えが正しいのであれば――まだ間に合うはずだ。



 家に着くとすぐ、澪は靴を脱ぎ捨て、廊下を駆けた。


 真っ直ぐに自室へ向かい、扉を開け放った。息を乱したまま机へ向かい、引き出しを勢いよく開ける。


 その中には、今までの栞がきちんと揃えられている。紫乃と過ごした時間の結晶のように思えて、ここに大切に保管していた。


 ポケットに入れていた二枚と合わせて、全部で十一枚。それをそっと束ねると、机の上へ一枚ずつ丁寧に並べていく。


 一枚目――ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 から紅に 水くくるとは


 全ての始まりの歌。まだ二週間も経っていないのに、ずいぶんと昔のことのように感じる。


 ある日突然、澪は和歌の世界に迷い込んだ。そしてそこで、紫乃と出会った。


 二枚目――久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ


 その翌日、澪は好奇心のままに、もう一度あの世界へ飛び込んだ。そこで、紫乃と再会を果たした。


 三枚目――夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ


 この歌で初めて、この和歌の世界の壮大さを目の当たりにすることになった。和歌の言葉一つ一つが、この世界を形作っているのだと知った。そしてこの頃から、紫乃のことを放っておけなくなっていた。


 四枚目――朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木あじろぎ


 ここで初めて、紫乃が名前を呼んでくれた。初めて手を繋いだのも、このときだ。紫乃との距離が、一段と縮まった瞬間だった。


 五枚目――心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花


 霜に紛れた白菊の中から、本物を探した。一発で当てたときには、流石に自分でも驚いた。あのときの紫乃の表情も、鮮明に思い出せる。


 六枚目――奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき


 土日の間の寂しさを、互いにぶつけ合った。たった二日間だけなのに、あんなにも恋しく思ってしまった。今思えば、この頃にはもう、澪の心には恋が芽生えていたのだろう。


 七枚目――田子の浦に うち出でてみれば 白妙しろたえの 富士の高嶺に 雪は降りつつ


 ここで、和歌の世界が解釈によって揺らぐことを知った。このときはまだ、それがここまで大きな意味を持つとは思ってもいなかった。


 八枚目――人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける


 この歌では、世界に紫乃の解釈が反映されて、過去の学校になっていた。そこで澪は、紫乃の過去に触れた。紫乃がどんな経験をし、どうやってこの和歌の世界まで来たのかを知った。


 九枚目――わがいおは 都の辰巳たつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり


 ここで澪は、その胸の内を紫乃に明かした。泣き崩れる紫乃を見て、それを言わずにはいられなかった。思い返すと、少し顔が熱くなる。


 十枚目――契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは


 そして、今日の歌。この中で改めて、ずっと一緒にいようと約束した。もちろん、澪は今でも、この約束を諦めるつもりはない。


 十一枚目――めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな


 紫乃の雰囲気を纏った歌。彼女はこれを別れの歌と捉えたようだった。ようやく会えても、またすぐに見失ってしまうと解釈したのだろう。


 だが、澪は違った。


 たとえ一度は別れてしまっても、また会いに行けばいい。見失ったのならば、また見つけに行けばいい。


 そうして何度も何度も巡って、また再び会うこと。それこそが「めぐり逢ひ」なのではないだろうか。


 十一枚の栞を並べ終えると、澪はその場でそっと目を閉じた。胸の前で手を組み、祈りを捧げる。


「わたしの名前は波元澪って言います! お願いします! わたしに力を貸してください!」


 そう叫ぶのに続けて、歌を詠み上げた。



 ――わびぬれば 今はた同じ 難波なにわなる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ



 この歌の「身を尽くし」には「澪標みおつくし」が掛けられている。難「波」と「澪」標、それに作者の「もとよし親王。条件は揃っているはずだ。


 ――悩み苦しんだのだから、今となってはもうどうなっても同じことだ。難波にある「澪標」ではないが、この「身を尽くし」てでもあなたに会いたいと思う。


 その意味も、今の澪にピッタリと重なっている。


 紫乃に会えない苦しみに比べれば、自分の身などどうなっても構わない。どんな困難が立ちはだかっても、ただただ、もう一度紫乃に会いたい。


 そして「澪標」――これは舟の道しるべとなる杭のことだ。これにも少し、心当たりがある。


 以前紫乃は、和歌の世界に訪れた人はその記憶を失ってしまう、と言っていた。


 それなのになぜ、澪だけは覚えていられたのか。なぜ何度も何度も、迷うことなくあの場所に辿り着くことができたのか。少しだけ、不思議に思っていた。


 和歌の世界へ行く度に現れる、この謎の栞。これこそが「澪標」だったのではないか。


 この栞があるからこそ、毎度あれは夢ではなかったという確信が持てた。つい先程も、この栞によって全ての記憶を取り戻すことができた。


 実は今までも、この歌の力が漏れ出していたのではないか。そしてその栞が、和歌の世界への道筋を示し続けてくれたのではないか。


 それならば、今までの澪標を束ねて、改めてこの歌を呼び覚ませば――もう一度、和歌の世界への道が開けるはずだ。


 閉じた瞼越しに、ふっと明るくなったのを感じた。


 澪ははっと息を呑み、恐る恐る目を開けた。机の上の十一枚の栞が、強い光を放っている。


「……!」


 上手くいった。


 光は次第に強さを増していく。光輝いた一枚一枚が溶け合い、それらが一繋ぎの道のように見えた。眩しい奔流となり、澪を包み込んだ。


 視界が真っ白に飛ぶ。


 その白の向こうに、何かが見えた気がした。荘厳な扉のようなもの。


 澪はそこに、精一杯手を伸ばした。



 澪が目を開けると、そこは図書館だった。


 だが、いつものように席に座った状態ではない。入口の扉を開け放ち、そのままそこに立ち尽くしているような形だった。


 もう閉館時刻もとうに過ぎ、もう司書の先生の姿もない。しんと静まり返って――いるはずだった。


 その静寂の奥から、微かな音がしていた。すすり泣くような、細く震える声。


 きっと、紫乃だ。


 直感的にそう思い、澪は駆け出した。


 机の間を縫い、本棚の脇をすり抜ける。何となくいつもの場所、古典の本棚のすぐ傍の、いつもの座席の辺りにいるような気がした。


 一番奥の本棚まで来ると、その陰を覗き込んだ。


 やはり、そこにいた。


 紫乃が床にうずくまり、膝を抱え込んでいた。肩を震わせながら、小さく泣いていた。


「紫乃ちゃん!」


 澪が声を掛けると、紫乃はびくりと身体を震わせた。


 ゆっくりと上げられた顔には涙の跡がはっきりと残っており、瞳は信じられないものを見ているかのように見開かれていた。


「澪さん……? どうしてここに……?」


 掠れた声だった。


 その問いに答えるより先に、澪は思わず紫乃へ駆け寄っていた。


 膝をつき、その細い身体を強く抱き締める。ひやりと冷え切った身体に、温もりが戻る。


「そんなの、ずっと言ってきた通りだよ。わたしは、紫乃ちゃんに会いたいからここに来た」


 耳元でそう言うと、紫乃の身体がまた震え始めた。


「でも、それじゃ……澪さんまで……」


 最後まで言わせたくなかった。紫乃はまた、自分を責めるつもりだ。


 澪は抱き締めたまま、紫乃の声を遮るように詠み上げた。



 ――わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ



 静かな館内に、澪の声が澄んで響く。


 紫乃が息を呑む気配がした。


 澪は腕を緩めて紫乃に向き直ると、至近距離でその目を真っ直ぐと見つめた。


「わたしは、この歌でここまで来たんだ」


 落ち着いたトーンで続ける。


「紫乃ちゃんは優しいから、わたしのためを想ってあの決断をしてくれたんだっていうのはわかってる。それでも……それでも、わたしは紫乃ちゃんがいなくなるくらいなら、自分がどうなったって構わない。今わたしがここにいるのは、わたしの決意だよ」


 少し息を吸うと、決め台詞のように言った。


「紫乃ちゃんと一緒にいることが、わたしにとっての一番なんだよ」


 紫乃の瞳からまた、大粒の涙が溢れた。ぽろぽろと零れて、頬を伝い、膝の上へ落ちていく。


 それでもなお、紫乃は「でも……」と発する。また、自己犠牲をしようとしている。


 反論の隙を与えずに、澪は続けた。


「それに、このままじゃ紫乃ちゃんが苦しんだままじゃん。一人で全部抱え込むのを、優しさにして欲しくない。紫乃ちゃんはもう、紫乃ちゃん一人のものじゃないから。紫乃ちゃんの幸せが、わたしの幸せ。だから紫乃ちゃんにも、ちゃんと幸せになって欲しい」


 澪は紫乃を優しく包んだ。一人じゃないということを、言葉以外でも表現したかった。


 腕の中で、相変わらず紫乃は泣きじゃくっていた。


「それでさ、色々と考えたんだけどさ……」


 紫乃ともう一度会って――その後はどうするのか。


 図書館からの帰路は、ずっとそればかり考えていた。


「わたしは紫乃ちゃんを、向こうに連れて帰りたい。和歌の世界で会うのも良かったけど、やっぱり現実でも一緒に過ごしてみたい」


 そう言った途端、紫乃の震えがピタリと止んだ。


「紫乃ちゃんにトラウマがあることはもちろん知ってる。わたしには想像できないくらい、苦しんだってことも知ってる」


 紫乃の身体を起こし、再び顔と顔を直接向き合わせる。


「それでも、今度はわたしがいるから。どんなときも、わたしが傍に、ずっと一緒にいるから」


 紫乃の瞳が揺れる。


「わたしと一緒に、もう一度、現実世界で過ごしてみない?」


 紫乃は俯き、唇を震わせたまま、しばらく何も言わなかった。館内は静寂に包まれる。


 やがて堰を切ったように、また紫乃の瞳から涙がこぼれる。


 紫乃は澪を抱き返しながら、途切れ途切れの声で呟いた。


「……私も……本当は、現実に帰りたかったです。でもやっぱり、怖くて……」


 紫乃は、今度は自分で顔を上げると、澪の瞳を見つめた。


「それでも……澪さんと一緒なら、また少しだけ、がんばれそうな気がしてきました」


 その瞬間、澪の目の奥まで熱くなった。


 そう言ってくれたことが、嬉しかった。


「大丈夫。ここまで無理やり迎えに来るくらいなんだから。今度は絶対に、紫乃ちゃんを一人にしない」


 澪は目の前の紫乃に、口づけをした。


 これから先へ、一緒に進む約束を込めて。


 澪が唇を離すと、それを追うようにして、紫乃からも口づけをしてくれた。


 突然、また紫乃からキスをしてくれたことに驚きつつも、そんな紫乃も愛おしかった。


 二人が満足するまで、その応酬は何度か続いた。だんだん、自分たちでもおかしくなってしまい、笑みがこぼれた。


 やがて澪はそっと立ち上がり、手を差し出した。


 紫乃は一瞬それを見つめると、決意を固めるようにして、静かにその手を取った。


 

 その瞬間だった。


 空気が変わった。


 肌に触れる温度も、足元の感触も、辺りの景色も、何もかもが一息に塗り替えられていく。


 この感覚には、身に覚えがあった。和歌の世界が上書きされていく感覚だ。


 図書館に、別の世界の気配が迫り上げて来た。


 山の中の急流の畔に塗り替えられ、世界が冷たい水音に満たされた。


 その川の瀬は激しく、白い流れは大きな岩にぶつかって二手に砕け、激しい飛沫を上げていた。ぶつかり、裂かれ、乱れながらも、その水はそこで終わることなく、少し先でまたすぐに合流して、一つの流れとなって下っていく。


 澪は紫乃と並んで、その光景を見つめていた。やがて、頭の奥にすっと言葉が流れ込んで来る。


 はっとして隣を見ると、紫乃も同じように、こちらを向いて目を見開いていた。


 彼女も同時に、この和歌を受け取ったらしい。


 二人は言葉もなく見つめ合った。澪が小さく頷くと、紫乃もまた静かに頷き返す。


 それだけでもう、十分な程に伝わった。



 ――瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ



 そっと呼吸を合わせて、二人の声を重ねた。


 澪の真っ直ぐな声と、紫乃の澄み渡った声。


 響きの違うそれらが一つに溶け合って、調和を生み出していた。


 ――川の瀬の流れが速いので、岩にせき止められた急流は二手に分かれるが、それらはまたいつか一つになるのと同じように、今はあなたと離れていても、最後には再び会おうと思う。


 澪はその意味を胸の中で噛み締めた。


 一度は引き裂かれても、それで終わりではない。またその先で、再び一つになることができる。


 この歌もまた、今の澪たちを表していた。これ以上ない程に、相応しい歌だった。


 だが今日は、これだけでは終わらせなかった。


 分かれた流れが再び合わさるのは、澪と紫乃のことだけではない。そこにもう一つの解釈を重ねる。


 一度は現実世界を諦め、この和歌の世界に逃げ込んでしまった紫乃。そんな彼女が、今ここで再び希望を持ち直し、現実世界へと合流しようとしている。


 この歌を、そういう帰還の歌として読み解く。


 澪はその解釈を、強く、強く心の中で結んだ。紫乃もまた、隣で同じように念じていた。


 やがて、いつもの風が吹いた。


 だが今日は、普段とは少しだけ違うように感じた。


 今日のこれは、一方を冷たく攫って行く別れの風ではない。


 もっと温かく、柔らかく、透き通っていた。前へ進むための風。二人の未来へ向かって吹く、希望の風だ。


 澪は紫乃の手をぎゅっと握り直した。紫乃も同じように握り返してくる。


 ――必ず、一緒に帰ってみせる。


「行くよ、紫乃ちゃん!」


 呼び掛けると、紫乃は今までで一番真っ直ぐな表情で頷いた。


「……はい!」


 その希望に満ち溢れた元気な返事が、澪はたまらなく嬉しかった。


 景色が白み始めた。


 急流の音が遠ざかり、山の空気が解け、輪郭が薄れていく。身体の感覚も風に溶けていく。


 それでも、紫乃を握る右手の感触だけは、はっきりしていた。


 ――この手は絶対に離さない。この先、何があっても、この手だけは。



 目を覚ますと、自分の部屋だった。


 見慣れた机が目の前にある。その上では、綺麗に整列された栞から放たれる光が、今まさに収まろうとしていた。


 戻って来た、と理解するのと同時に。


 右手に、確かな感触があることに気付く。


 澪ははっと息を呑み、勢いよく振り向いた。


 紫乃だ。


 彼女もまた、同じように振り向き、至近距離で視線がぶつかった。


 幻ではない。すぐ目の前に、確かに紫乃がいた。


 ――無事に、一緒に戻って来られた。


 その事実が胸に届いた瞬間、もう堪えられなくなった。


 澪と紫乃は、同時に互いに抱きついた。


「……っ!」


 言葉にならない息だけが漏れる。


 強く、強く抱き締め合ったまま、二人はその場に膝から崩れ落ちた。


 紫乃は肩を震わせ、声を殺すように、澪の胸元に顔を埋めた。


 その頭を抱えながら、澪は涙を堪えようとした。だが、もう無理だった。視界はとうに滲んでいて、頬を伝う熱を自分でも止められなかった。


「紫乃ちゃん……!」


「澪さん……!」


 掠れた声で、互いの名前を呼び合う。それだけで、胸が満たされていく。


 名前を呼べば、呼び返してくれる。たったそれだけのことが、奇跡みたいだった。


 どちらからともなく、顔を寄せ、唇を触れさせた。熱を分け合うように、強く、深く。


 言葉では足りなかった。好きだとか、愛してるとか、そんな言葉を越えて、もっと先にあるものを伝えたかった。


 これから先も一緒に生きていくこと。もう二度と一人にしないこと。


 互いの全てを捧げることを誓い合うように、二人は熱い口づけを交わした。


 唇が離れても、額が触れ合う程の近い距離で、二人の息が混ざり合う。


 紫乃の瞳は涙で濡れていたが、その奥にはもう絶望の影もない。


 澪もまた、涙を流したまま、心からの笑顔を浮かべていた。


 二人は互いに、その姿を何度も目に刻み込んだ。


 ――ここにいる。紫乃ちゃんが、ちゃんとここにいる。


 澪はもう一度、紫乃の身体を抱き寄せた。紫乃も迷いなく、その背に腕を回した。



 二人はしばらく、互いの存在を確かめ合いながら、静かに抱き締め合っていた。


 落ち着きを取り戻しながら、その腕をゆっくりと解いていく。


 もう、少し手を離したくらいでは、見失わない。そんな確信が持てた。


 紫乃は涙の跡を指先でそっと拭うと、澪の部屋をぐるりと見回した。


「……ここは……澪さんのお部屋ですか?」


 ぽつりと零れた声は、まだ少し掠れていた。


「うん」


 澪の返事も、上ずってしまう。


「……あ、いらっしゃい」


「お……お邪魔します」


 思い出したように、そんな挨拶を交わした。


 紫乃は、その視線を机の上へと移した。


「この栞……」


「あ、そうそう!」


 澪も遅れて、机に目を遣った。


 そこには、十一枚の栞――に加えて、新たな二枚の栞が並んでいた。


 驚きつつも、その両方の内容を既に知っていた。澪はそのうち一方を手に取った。


『わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ』


 その裏には、海に突き刺さった木の柱――恐らく澪標のイラストが施されている。


「これが、わたしの歌。そしてこの栞が、澪標」


 ここまで言うと、紫乃がなるほどという顔をした。流石、紫乃だ。今まで一人で和歌の世界を調べていただけあって、理解が早い。


 もう一枚の栞にも手を伸ばす。


『瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』


 裏面には、つい先程まで見ていたような、山奥の急流の絵が描かれている。岩にぶつかって二つに割れても、その先でまた一本の流れとなっている。


 紫乃をこの世界に連れ戻してくれた歌だ。


 澪は二枚の栞を持ったまま、顔の前で手を合わせると、心の中で「ありがとうございました」と感謝を告げた。横で紫乃も、それに倣って手を合わせた。


 澪はその栞をそっと机の上に戻すと、改めて紫乃の手を取り直した。また真正面から向き合う。


 互いにまだ少し目を腫らしているものの、もう涙は乾いてきている。ようやく、いつもの顔に戻ってきていた。


「これから、きっと色々とあると思う」


 澪はゆっくりと口を開いた。


「すぐに全部上手くいくとは限らないし、苦労することもあると思う。それでも……これからも、わたしと一緒にいて欲しい。改めて……わたしと付き合ってください」


 紫乃の瞳を真っ直ぐと見つめる。紫乃も、真っ直ぐと見つめ返してくれた。


「私こそ、怖くても、迷っても、今度は逃げません。澪さんと一緒に、生きていきたいです。こちらこそ、改めてよろしくお願いします」


 もう何度目かもわからないやり取りに、二人でふふっと笑い合った。


 それでも、言葉にすることは大切だと思った。言葉にすれば、心を通じ合わせることができる。そうして今、二人の心は深く繋がることができたのだ。


 窓の外では雲がゆっくりと流れ、月が覗いた。部屋の中に、淡い月明かりが差し込んだ。


 その光の中で、二人はしばらく向かい合っていた。


 もうそれは、遠くから眺めて見失うだけの月ではない。


 同じ時間、同じ場所で、同じ未来に向かって歩いていける、彼女がいる。

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