第11話 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
これで、よかったのだ。
これしか、なかったのだ。
澪が去った後の丘で一人、紫乃は膝から崩れ落ちた。
――契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
今日の歌を知ってから、ずっと嫌な予感はしていた。それでも、字面通りに捉えれば愛の歌なのだから、大丈夫だと思っていた。それでも結局、こんな結末を迎えてしまった。
――約束しましたよね、お互いに涙に濡れた袖を絞りながら。末の松山を波が越えることがないように、二人の仲も決して変わらないと。
この歌は本来、別れの歌である。どんな津波が来ても越えられなかった末の松山に掛けた、永遠に変わることのない愛。それが破られたことに対する、恨みの歌なのだ。
これから先もずっと、澪さんを愛し続けます――そんなの詭弁だ。巻き込まないようにするためとは言え、ずっと一緒にいようという澪の言葉を裏切るものに他ならない。これは、そんな紫乃に突き付けられた歌なのだ。
恐らく澪はもう、この和歌の世界に踏み入ることはない。それが、紫乃があの歌に与えた解釈だ。
――めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
月雲紫乃。この名前には、言葉の結び付きが強い歌――「紫」式部が詠んだ、「雲」隠れした夜中の「月」の歌が宿っている。誰に言われたわけでもないが、和歌の世界に通っているうちに、ぼんやりとそんな気がしてきたのだ。
――めぐりめぐってようやく会えたのに、見たのがその人かもわからないほど短い時間で帰ってしまった。まるで雲隠れしてしまった真夜中の月のようだ。
そしてこれもまた、別れの歌なのだ。せっかくめぐりめぐって出会えても、それをはっきりと認識できる前に別れが訪れてしまう。
澪以前にも何人か、和歌の世界に迷い込んで来た人がいた。だが恐らく、この和歌の力が漏れ出ていたのだろう。彼女たちは皆、和歌の世界を夢だと思い込み、再び訪れることはなかった。
そんなことを繰り返しているうちに、紫乃は自身の名に宿る和歌を、強く意識するようになった。だが、意識すればする程、逆にその力は強まっていった。せめてもの抵抗として、名字だけでも伏せるようにしてみたが、あまり効果はなかった。
そんなところに、澪が現れた。
なぜか彼女には、この和歌の力が及んでいないようだった。澪は何度も、紫乃の元を訪れた。
紫乃はそれを、運命だと感じた。徐々に、澪に心惹かれていった。
――それでも、結局はこうなってしまった。
紫乃はこの歌を、澪に使わざるをえなかった。澪との別れとして解釈するしかなかった。
思っていた通り、名字を明かした瞬間、紫乃に宿っていた和歌の力が溢れ出していくのを感じた。そこに解釈を乗せて、澪を突き放した。
これで多分、もう二度と彼女に会うことはできない。
それだけではない。これまでの来訪者と同じように、もしかしたら澪も全てを忘れてしまうかもしれない。和歌の世界のことも、紫乃のことも、ただの夢のできごととして、記憶から薄れていくかもしれない。
だが、澪のことを想うなら、むしろその方が都合が良いのかもしれないと思った。
ずきりと胸が痛んだ。抑えの利かない苦しみが、胸の内から噴き出しそうになる。そのままではいられなくなって、紫乃はその場でうずくまった。
やはり澪には、全てを忘れ去っていて欲しい。
もう二度と会えない苦しみも、自らの存在が徐々に消えていく苦しみも、自分一人だけで十分だ。澪には絶対に、この気持ちを味わって欲しくない。
いつの間にか和歌の世界は解除され、閉館後の図書館へと戻っていた。
無事に閉館したということは、澪は何事もなく帰ったのだろう。これまでのことなど綺麗さっぱり忘れて、またいつも通りの日常に戻っていくのだろう。
澪は、紫乃とは違う。紫乃ほど臆病でも、内向的でも、口下手でもない。薄れかけた存在も、少しずつ修正していけるはずだ。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。
紫乃自身はもう、とっくに現実から零れ落ちた身だ。澪が無事でいてくれるなら、それでいい。
――そう言い聞かせるしかなかった。




