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第10話 契りきな かたみに袖を しぼりつつ

 今日のみおは、朝からずっと浮かれていた。ついつい、昨日のことを思い出してしまう。


 腕の中にあった紫乃しのの温もり。重ねた唇から伝わってきた紫乃の感触。そして紫乃からもらった「大好きです」という言葉。思い返すと、胸の奥がじんわりと熱を持ってくる。


 昨日、あんな風に想いを伝え合ったのだ。言葉でも、行動でも。


 通学路を歩いているときも、教室で席に着いているときも、授業を聞いているときも、意識は何度も昨日へと引き戻された。ふと口元が緩みそうになってしまう度に、慌てて顔を伏せる。そして頬の熱が引くまで、じっとそうしていた。


 昼休み、友人に話しかけられても、澪の返事はどこか上の空だった。


 数人で会話していると、今日はよく話題に置いていかれた。話をしているときにも、つい別のことを考えてしまう。そうしているうちにも話はどんどん移り変わり、気付けば別の話題で盛り上がっていた。


 ――だめだ。わたし、浮かれすぎてる。


 そんなことを数回繰り返しているうちに、ようやく澪は自覚した。こっそり息を吐く。


 友人たちの会話を少し聞いて、その流れを捉えた。


「あ、ということはさ――」


 澪が口を開くが、彼女らの会話は止まらない。


 と思いきや、そこから一拍ほどの時間を空けて、友人たちは澪に目配せをしてきた。


「ん?」


「あ、いや、えっと……ということはさ――」


 テンポを崩され、話し方がぎこちなくなってしまう。


 澪の声が相手に届くまでに、妙な間が挟まっていた。例えるなら、オンラインで通話しているときのタイムラグのようだった。


 最初のうちは、ただの気のせいということにして、さほど気にしていなかった。


 しかし違和感は、この一回きりではなかった。


 その友人との会話でも、また別の友人との会話でも、今日は妙に相手の反応が悪い。話のテンポが絶妙に噛み合わない。澪が話をしているタイミングに話が被せられることもあった。ちゃんと聞こえるはずの声量とスピードで話しているはずなのに、何回も聞き返されることもあった。


 それ単体ではよくあることであり、気にする程のことでもない。ただ、今日はそれが異常に多い気がしてならなかった。


 思い返してみれば、昨日の帰り際の図書館で、司書の先生とも似たようなことがあった。呼んでいるのに、なかなか反応がなかったのだ。


 紫乃の過去の話が頭をよぎる。紫乃は和歌の世界に飲み込まれ始めると、少しずつ現実の中で存在が薄れていったのだと言った。


 だが彼女の話では、それは相当の期間、和歌の世界に通い始めてからのことのようであった。具体的な期間を聞いたわけではないが、あの口振りからすると、二週間やそこらの話ではないだろう。


 そんな話を聞いたばかりだから、過敏になっているだけかもしれない。普段は気にならないだけで、会話なんて案外こんなものなのかもしれない。


 心に一抹の不安を抱えながらも、澪は放課後までの残り少しの時間を、気長に過ごした。


 

 放課後のチャイムが鳴ると同時に、澪は席を立った。


 旧館の図書館を目指して歩き出した。校舎内にいる間はギリギリ走っていないくらいの早足で、外に出てからは駆け足で、紫乃の元へと向かった。


 図書館には、司書の先生を除いて、今日も一番乗りだ。いつもの席に陣取って、支度を進めた。


 椅子に腰掛け、例の本の表紙に手を掛けたところで、澪はふと静止した。


 確かに、紫乃には会いたい。だがそれと同時に、今日はどのような顔で会いに行けばいいのかわからなかった。


 ここに来て、昨日の自身の行動が思い起こされる。


 紫乃を抱き締め、好きだと伝え、キスをした。


 途端に恥ずかしさが込み上げてきた。我ながら、昨日は随分と大胆なことをした。


 澪は、顔が熱くなっているのを感じた。今まで何かに熱中することのなかったはずの澪が、こんなにも振り回されてしまっている。恋とは恐ろしいものだ。


 だが、だからと言って紫乃のことを考えるのを辞められるわけはない。無論、会わないという選択肢もない。


 澪は深呼吸をし、一度気持ちを落ち着かせると、本を開いた。



 微かに、潮の匂いが立ち込めた。淡く、でも確かに、潮の香りが漂っていた。


 澪はすぐに立ち上がり、本棚の間の空間へと駆け出した。


 その道は次第に柔らかな草に覆われ、なだらかな草原へと変化していった。久し振りに、走りやすい地面に出会った気がした。


 潮の匂いが濃くなったかと思うと、やがて視界も開けた。そこまで来ると、澪は足を緩めた。


 目の前には、少しばかり小高い丘があった。そして、その上には何本もの松が立ち並んでいた。一本一本が太く、ただそこにあるだけで景色を支えてしまうような存在感がある。それぞれが樹齢百年や二百年では、とても済まなそうだ。潮風に晒されてもびくともしない、堂々とした力強さがある。


 そしてその松林の入口に佇む、一際大きな松の木の下に人影があった。


 白い肌に、美しい藤色の着物が映えている。さらさらとした綺麗な髪が、風に揺れている。静かに、上品に立っていた。紫乃だ。


 その姿を見つけた途端、澪は自分の胸が大きく跳ねたのを感じた。


 紫乃の姿を見ると、さっきまで感じていた恥ずかしさも、昼頃に抱いていたわずかな不安も、一瞬でどこかへ押しやられてしまった。


 澪は紫乃に向かって、ゆっくりと歩き始めた。いつもならば駆け寄っていたところだったが、今日はゆっくりと、ちゃんと落ち着いて会いたかった。


 紫乃も、今日は大きくアピールするわけでもなく、少しだけ照れたように澪へと視線を向けて、胸の前で小さく手を振っていた。


 その仕草が、澪にはひどく可愛らしく見えた。


「えっと……こんにちは……?」


 澪は彼女の傍まで寄り、声を掛けた。何と言ったらいいかわからなくなり、妙に他人行儀な挨拶になってしまう。


「……こんにちは」


 紫乃の返事もぎこちない。


 そんな自分たちの様子がおかしくなり、すぐに二人で笑い合った。ほとんど同時に、微かな笑い声が漏れた。


 さっきまで張り詰めていた緊張が、たちまち解けた。


「いやー……昨日のことを思い出したら、少し恥ずかしくなっちゃって」


「私もです」


 澪が頭を掻きながら言うと、紫乃も頬を赤くしてこくりと頷いた。


「えっと……その……」


 紫乃がもじもじとしながら、何かを言いたそうにしている。


「……?」


 澪が促すように、首をわずかに傾げた。


 紫乃の視線があちこちを彷徨っているのがわかった。それから少し肩を竦めると、意を決したように顔を上げた。


「……私たちって、付き合ってるってことで……いいんですよね……?」


 上目遣いで、そう聞いてくる。不安そうでありながら、その声は期待感に溢れているようでもあった。


 澪の胸の奥が、きゅっと締め付けられる。愛おしかった。


 思い返してみると、昨日は「付き合う」とは明言していなかった。ここでちゃんと、言葉にして確かめたかったのだろう。それは澪も同じだった。


 澪は手を伸ばし、紫乃の身体をそっと引き寄せると、優しく抱き締めた。


「み、澪さん……?」


 紫乃の戸惑ったような声が、耳元で跳ねた。


「もちろん、わたしはそのつもりだよ。紫乃ちゃんがよければ、ずっと一緒にいて欲しい」


 言いながら、澪も照れてきてしまう。


 紫乃も最初こそ固まっていたが、やがておずおずと澪の背中へと手を回した。


「こちらこそ……よろしくお願いします」


「わたしからも、改めてよろしくね」


 互いに、抱き締める腕に力がこもった。


 風が松の梢を揺らし、枝葉がざわりと鳴る。


 潮の匂いの混じる空気の中で、二人はしばらくの間、そうして抱き合っていた。


 胸の奥まで満たされていくような心地良さがあって、可能ならばいつまでもこうしていたかった。しかし当然、そういうわけにもいかない。


 どちらからともなく、少しずつ腕の力を弱めていき、互いの抱擁を解いた。


 このまま離れてしまうのは名残惜しくて、自然と二人は手を繋いでいた。今日はただ重ねるだけではない。紫乃の細い指の間に、澪は指を一本ずつ滑り込ませていった。紫乃も握り返してくれる。絡めるようにして、いつもよりしっかりと、濃密に結んだ。


 二人は手を繋いだまま、何となく、目の前の松の木を見上げた。間近で見ると、迫力があった。幹はまるで山のように、ピクリとも動きそうにない。


 その瞬間、突然澪の頭の中に、言葉がするりと滑り込んで来るのを感じた。



 ――契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは



 そして気が付けば、その言葉がそのまま口を突いて出ていた。詠み上げた後で、自分でも驚く。


 だがその横で、紫乃がそれ以上に驚き、目を丸くしていた。


「……どうして、わかったんですか?」


 澪は少し困ったように笑った。


「なんか今、この歌が降りてきたっていうか? 急に頭に浮かんできたっていうか?」


 それ以外に言い表しようがなかった。自分でも上手く説明できないが、ただ松林を見上げていると歌が流れ込んで来たのだ。


 そして今日も不思議なことに、その歌の意味が滑らかに胸に落ちてきた。


 ――約束しましたよね、お互いに涙に濡れた袖を絞りながら。末の松山を波が越えることがないように、二人の仲も決して変わらないと。


 あまりにも、今の澪と紫乃の状況に重なっているように思えた。昨日は、互いに涙の中で想いを確かめ合った。この先もずっと一緒にいると。


 それを思い出していると、また照れくさくなってしまう。


「この歌って、二人の仲は決して変わらないっていう歌だよね? じゃあもしかして、わたしたちのことを表してるのかな? 昨日みたいに、わたしたちの想いが強すぎて、この歌を呼び寄せちゃったりして」


 照れ隠し半分、紫乃へのからかい半分で、そんなことを言ってみる。紫乃が照れたり、困ったように笑ったりするのを期待していた。


 しかし、返ってきた反応は、どこか鈍かった。肩透かしを食らったような気分になる。


「……」


 だが澪はすぐに、紫乃の様子がおかしいことに気が付いた。


 紫乃は何も言わなかった。否定するわけでも、頷くわけでもなく、ただ視線を落としていた。どこか深刻そうな、暗い表情を浮かべている。


「……どうかした?」


 澪が尋ねると、紫乃ははっとしたように顔を上げた。


「あ、いや、すみません。ちょっと考えごとをしてて……」


 言いながらも、その表情は晴れない。繋いだ手にこもる力が、わずかに強くなった気がした。


 少し考えるような素振りを見せた後、紫乃はゆっくりと口を開いた。


「何か身の回りで、変なことって起きてませんか……?」


 その問いを聞いた瞬間、今日の昼に抱いた違和感が蘇る。澪の中の小さな不安が、みるみるうちに膨らんでいった。


「……ある」


 澪はゆっくりと答えた。


「今日の昼――いや、昨日の夕方から、ちょっとだけ違和感はあったんだよね。話しかけても反応がちょっと遅かったり、会話のテンポが噛み合わなかったりして……」


 言葉にしていく程、嫌な予感が強まっていった。思わず、紫乃の手を握る力が強まってしまう。


「えっと……やっぱり、これって……」


 最後まで言うことはできなかった。


 それでも紫乃は何かを悟ったように、口を結んだ。二人の間に、重い沈黙が落ちる。


「少しだけ、話しておかなければならないことがあります」


 そう言って、紫乃は繋いだ手を引いた。澪は何も言わずに、その後をついて行く。


 二人は松林を突っ切って進んだ。松と松の間を縫って、奥へと入って行く。


 天高くそびえ立つ松の枝葉が空を覆い、松林の中は薄暗かった。潮の匂いを含んだ風が抜けていくと、ざわざわとした音が低く反響する。その音が逆に、この場に流れる静寂を形作っているようだった。


 松林はさほど広いものではなく、二人はすぐに反対側へと抜けた。丘になっているのはそこまでで、その先には下りの斜面が現れた。


 そしてそのずっと先には、大海原が広がっていた。遠くの方で、波が荒ぶっているのが見えた。


 あの海が、今日の歌の「波越さじ」を表しているのだろうか。澪がそんなことを考えているうちに、隣で紫乃が重たげに口を開いた。


「……何となく察してるとは思いますが、多分澪さんは和歌の世界に飲み込まれ始めてます」


「やっぱりそうだよね……」


 わかっていたが、認めたくなかった。昨日の今日で、こんなことが起こって欲しくなかった。


「頭の中に和歌が流れ込んで来るのは、この世界に飲み込まれている証拠です。私のときも、事態が深刻になってきた頃に始まりました」


「そうだったんだ……」


「ちなみに、いつから始まりました?」


 改めて思い返してから、澪は慎重に答えた。


「昨日……かな。『人はいさ』も『わがいおは』も、言われなくてもわかっちゃったんだよね」


「そうですか……」


 紫乃は一瞬口をつぐむと、また言いにくそうに続けた。


「思っていたより、進行が早いです」


「やっぱりそうだよね?」


「はい。そしてそれは多分……」


 紫乃の口がまた止まった。


「私と……和歌の世界の住人と……深く関わり過ぎたせいです。私のときは何カ月もかかっていたのに、澪さんはたった二週間で……」


「そんなこと――」


 ない、とは言えなかった。その直前で、言葉が途切れてしまった。


 紫乃から聞いた当時の状況。そして、今の澪の状況。それらを比べたときの最大の違いは、紫乃の存在だった。そしてここ数日の間に、紫乃とは深い交流を重ね、精神的に強い繋がりが生まれていた。


 一理ある、と澪は思ってしまった。


 二人の間に、重い静寂が流れた。何と言えばよいのかわからず、下を向いていることしかできなかった。


「……まだ、澪さんに話してないことがあったと思います」


「話してないこと……?」


 しばらくした後、突然紫乃が沈黙を破った。


「私の名字についてです」


 澪の背中に悪寒が走った。


 最初に名前を聞いたとき、紫乃は下の名前しか教えてくれなかった。それから時間が経った今でも、紫乃の名字は聞けていなかった。そしてそれは、単に聞きそびれたという話ではない。


 澪はそこに、言葉にこそなっていないものの、明確な拒絶を感じていた。あれだけ過去について話し、想いを通じ合わせても、それでもなお一線を引かれているようだった。それ程までに、触れてはならない領域のように感じていた。


 それが今、この状況でついに明かされようとしている。何かが起こる前兆のような、嫌な予感しかしなかった。



 ――めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半よわの月かな



 突然、紫乃が詠み上げた。


 いつものように透き通った声だったが、今日はどこか悲しみを纏っているように感じた。


 はっとして隣の紫乃を見ると、何かを決意したような、力強い表情を浮かべていた。それでいて、その大きな瞳からは、一筋の雫が走っていた。


「紫乃……?」


 澪が問うより早く、紫乃が言葉の続きを口にした。


「私の名前は月雲つきぐも……月雲紫乃って言います」


 その名前は海風に乗って、静かに澪の耳へ届いた。


 月雲紫乃。


 その響きが、胸の奥へとすっと落ちてきた。


 紫乃の落ち着いた雰囲気や、上品な和の風格に相応しい名前だと思った。名は体を表すとは、まさにこういうことなのだろう。


 その美しい名前に澪が言葉を失っているうちに、紫乃は続けた。


「それだけでも、覚えてくれていたら嬉しいです」


 その言葉は、まるで別れを表しているかのように聞こえた。その胸騒ぎに、澪の思考が引き戻される。


「そんな――」


 その瞬間だった。


 澪の周囲に突如、白い靄が立ち込めた。それはあっという間に視界を覆い隠していく。松林の輪郭が滲み、空の色は失われ、たちまち世界を白く塗り潰していく。


 繋いだ手の先にいるはずの紫乃の姿さえ、もうはっきりとは見えなくなっていた。


「うわ! 何?」


 思わずそんな声が漏れてしまった。


 靄の向こうから、紫乃の震えた声が聞こえた。


「ごめんなさい……これしか方法が思い付かないんです。これ以上、澪さんを巻き込むわけにはいかないんです」


「……巻き込む?」


「このままだと、澪さんまで飲み込まれます。私のせいで……」


「ちょっと待って、そんなこと――」


「澪さんには! 私と同じ目に遭って欲しくないんです!」


 澪の言葉を待たずに、紫乃はまくし立てた。


「私と同じ苦しみを、味わって欲しくないんです!」


「紫乃ちゃん! ちょっと待って!」


「澪さんは優しいので、きっと、そんなことないって言ってくれると思います。私のせいじゃないって……」


 今まさに言おうとしたことを先回りされ、言葉に詰まってしまう。


「でもこれは、私のせいなんです。澪さんが和歌の世界に飲み込まれているのは、事実なんですから……」


「それでも! わたしは一緒にいたい! 対策は……それから考えればいいから!」


「……そう言ってくれるとも思っていました。でも、それではダメなんです。それではもう遅いんです。これ以上、事態が進んだらすぐに私みたいになります」


「でも――」


 言い返そうとするが、できなかった。他の解決策が、何も思い付かない。


「これしか、方法がないんです……仕方ないんです……」


 紫乃のその声色は、何かを割り切ったような、あるいは何かを諦める決意を固めたように聞こえた。


「結局、今日の歌の通りになっちゃいましたけど、一個だけ――これだけは違います」


 握っていた手を解かれたかと思うと、すぐに目の前の靄から二本の腕が出てきて、澪の首の後ろに回された。


 次の瞬間、突如向こうから紫乃が現れると、そのままその唇が、澪の唇に触れる。初めての、紫乃からのキスだった。だがその唇は、確かに柔らかくて、紫乃の温もりを帯びていたはずなのに、ひどく冷たく感じられた。


 まるで、このまま手の届かないところへ行ってしまうことを、告げているようだった。


 澪は何も言えず、ただ目の前の紫乃の顔を見つめていた。


「私の想いはいつまでも変わりません。私は澪さんを愛しています。もう会えないかもしれませんが、これから先もずっと、澪さんを愛し続けます」


 その瞳から、また一筋の涙が落ちた。それでも紫乃は、にこやかに笑っていた。


 紫乃は本気だ。本気で、これで終わりにするつもりなのだ。


「紫乃ちゃん!」


 澪がそれに気付いたときには、もう遅かった。


 紫乃が腕を解くと、たちまち靄が二人の間に流れ込んで来た。それらはすぐに紫乃の輪郭を溶かしていく。


 澪は咄嗟に手を伸ばすが、届かなかった。虚しく空を掴んだ。


 急激に、もの凄い力で引き剥がされるような感覚に襲われた。いつもの比ではない。


 まだ帰りたくないという澪の意思とは無関係に、この世界との繋がりが一本一本、強制的に断ち切られていく。


 視界がぐらりと揺らぐ。足元の感覚も薄れていく。海風の潮の匂いも遠ざかっていく。


 そのまま澪の意識は、闇の中へと吸い込まれていった。

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