第三十二話
ようやくの第二章最終話です。
☆
「……」
朝。
ゼピュロス邸の自室で、アリアムは支度を整えていた。
今回の事件が一応の決着を見てから五日。ころころと気まぐれに変わる天候の日々だったが、今日はよく晴れていた。
姿見に自分を映す。いつもと同じながら、洗い立ての黒のワンピースと帽子。本当は正式な物を用意しても良かったのだが、これで十分だろう、下手に服を変えたら彼女に見分けてもらえなくなるぞ、とナタスにからかわれたので、普段通りの格好で行くことに決めた。
こんなときくらい、もう少し気を遣ってくれてもいいのではないかとも思ったが、これはこれで気を遣われているみたいなので、やっぱり申し訳ないなと思う。
汚れたりしている部分がないかを確認すると、次は寝癖のチェック。櫛を手にとって視線を上げる。
「!」
そこで、少しだけ息を呑んでしまった。
紅い、“ルビーの色をした”自分の瞳。それはまるで、彼女の身に付けていたピアスのようだった。
自己嫌悪は多々あるが、こんなのは初めてだ。否が応でも、あのことが浮かんでくる。
「あ、でも……」
これなら絶対に忘れることはないな、とアリアムは思った。
自分の身体の中に、想い出となるものがあるのだ。彼女が自分の中にある、という言い方でもいいかもしれない。
少しの間、自分とにらめっこをしながら、その向こうの違う人を見る。
この街に来たとき、迷子になった自分を導いてくれた人。その直後に友達になった。
夜の河原で共に騒動に遭い、それが原因で怒られてしまった――本当は、騒動の原因はその人だったけれど――。
紅玉の台座と呼ばれる丘陵の森で、期せずして闘った。死んだ者を操る、という許し難い行為を止めるため。
けれど、その人もまた、操られる側の人間だった。それも彼女の知らないうちに、彼女の意に反するところで。
そして、まるで壊れた玩具を捨てるように、その命を一方的に絶たれてしまった。
それに対し、自分は――。
「何も、できなかった……」
どころか、死ぬことまでも考えてしまった。
手にした櫛を握り締め、もう一度自分の瞳を覗き込む。少しだけ潤んでいた。
そう、これは想い出だ。愚かな裏切りを考えた自分への。
ずっと、これを持っていくのだ。決して消えないものだから、簡単に捨てられないものだから、ちょうどいい。そういうものだからこそ、自分として残しておける。
「すーっ……はぁ」
大きく一つ、深呼吸。喉の奥の変な感じを飲み込んで、滲んだ視界を元に戻した。
「よし!」
と、意味もなく声を出す。
そこにドアを叩く音がした。
「はい」
「アリアム、俺だ。入るぞ」
ナタスだった。言うなり、扉が開けられる。
「おはよう、アリアム」
「おっっはようッス、アリアム!」
「おはようございますですわ、アリアムさん」
ナタスも今日はいつもと少し違う格好をしていた。というのも、彼の普段の格好は今日の場には相応しくないからなのだろう。ゼピュロスから借りた、教団のマークが刺繍された装飾の少ない黒の法衣を着ていた。これはこれで、なかなか似合っている。
その両肩には、彼の使い魔のセレスとディアナ。
皆、戦闘の後は意識を失っていて大変だったが、もう傷はいいらしい。
彼らは三者三様の挨拶をして、許可も得ずに室内に入ってくる。
「どうぞ、って言う前に入ってこないでくださいよ。着替えてるところだったら、どうするつもりなんですか?」
「別にどうもしないが?」
「……」
なんという科白。心外。
そりゃあ彼からしてみれば、自分はまだ子供みたいなものかもしれないし、もの知らずなバカだし、発育だって、いいとは言えないけれど、でもそれは、まだ途上にあるということなのであって、だから少しくらい、どこか思うところがあっても損はないだろうし、別にいいんじゃないだろうか。
いや、本当に何かあっても、それはそれで、嫌、というか、困ってしまう、というか。
「着替えは済ませてますけど、まだ身だしなみを整えているところなんですからね!」
知らないうちに何度か表情を変えた後、誤魔化しのように膨れっ面になって釘を刺す。実際、身だしなみを整えているところを見られるのだって恥ずかしい。
だが、身から出た錆であったことを、アリアムは黒猫に思い知らされた。
「いえ、『よし!』という声が聞こえたので、準備ができたのかと思ったのですけれど?」
「うあ……」
自分へのおまじないが聞こえてしまっていたらしい。思わず赤面してしまう。
「そうか。まだ身だしなみを整えているところなのか。それは良かった」
「へ? 良かった、ってどういう意味ですか?」
準備が済んだと思ったから、入ってきたのではないのか。ナタスが妙なことを言うので、問い返す。
すると、彼は目を逸らし、
「いや、一瞬、それで行くのかと、思ったのでな」
よくわからない。
代わりに白猫の方を見て答えを求めると、
「頭。寝癖」
とても簡潔かつ、わかりやすく答えてくれた。
慌てて鏡を見る。
「あ、あ……み、」
そこには雑草生い茂る、荒れ果てた空き地のような光景が広がっていた。
「見ないでくださ〜い!!」
羞恥の絶叫も透明に聞こえる、澄んだ空気と高い空。秋晴れの一日。
今日は、シルファ=ムルルームの葬儀が執り行われる。
集団墓地。
その一角に、六つの棺が並べられていた。
事件の後、調査に来たゼピュロスの一団によって発見されたものがあった。
それは、大戦の残響とでも言うべき避難用の壕として利用されていた洞穴で見つかった、五つの子供の骨体。どれも皆、首にロザリオを下げていた。
調べてみたところ、街外れの教会で火事の犠牲になった子供たちのものだということがわかった。
彼らの葬儀は有志によって行われていたのだが、どうやらその“有志”というのが、近頃のテロと関わりのある者だったらしく、テロリストがそれを何かに利用するために持ち去ったのではないか、というのが公式の発表となった。
無論、シルファの遺体も、持ち去られたものとして扱われている。公式には。
真相を知るものは、この場においてわずか。
だが、不満はない。少し見方が違うだけ。本質的に間違ってはいないのだ。シルファは間違いなく、テロと関わりのある者によって利用されていたのだから。
棺に改めて、土が掛けられていく。
掛けているのは、教団の人間。
今日の葬儀の主催者は、教団。
テロの犠牲者としてシルファ=ムルルームと五人の子供たちは、教団が責任を持って埋葬、鎮魂することが決められたのである。
埋葬を終え、黙祷を捧げると、一人ずつ、花を手向けていく。
一人、二人、三人――次は、アリアムの番だ。
アリアムは一歩、シルファの墓前に近寄ると、大きな白百合をそっと添えた。
そして、静かな声で語りかける。
「あのときの質問を、もう一度します」
言い聞かせるような優しい声で、それでいて、悲しみに震える声で。
一つだけ、どうしても聞きたかったことを。
「貴女は今、幸せですか? 子供たちと、一緒にいられて……」
ゆっくりと風が吹いた。ざわざわと木の葉が騒ぎ、揺らめく。
不意に、頭に手が。
ナタスだった。
彼は何も言わず、ただ頷く。
アリアムも無言で立ち上がり、その場を後にした。
息が、苦しい。
吸い込んでばかりで、ちっとも吐き出せない。
鼻は、ぐしゅぐしゅ。
ナタスが乗せてくれた手が、温かい。帽子を深くかぶせてくれたのが、ありがたい。
足並みを揃えてゆっくり、それでも少しだけ、足早に。
金木犀のざわめく木陰に連れてきてくれた。
ここなら、いいだろう――。
ごめんなさい――。
いいさ――。
それだけを交わし、彼は距離を置く。
溢れる。零れる。止まらない。
それは、とても痛くて、しょっぱかった。
金木犀の香りが、甘かった。
この傷みを、味を、香りを、
絶対に、忘れない、
アリアムはそう、心に深く思った。
そうすることが、自分の心であるように。
せめてそれは、自分のものであるように。
今日も空は蒼くて、けれど夕暮れには赤い光を放つのだろう。
明日も、明後日も、ずっと。
自分の中の、友達のように。
☆
――これは、夢なのだろうか。
何も見えず、何も聞こえず、何も感じられなくなっていたはずの身体。
それが、確かに見ている、聞いている、感じている。
きっと、夢なのだろう。
でも――それでも構わない。
自分は、この場所に辿り着くことを目指したのだから。――
柔らかな風吹き抜ける、秋の教会。
夕日に染まる教会に、あの子たちが待っていた。
それに、急ぎ足で駆け寄っていく。
でも決して、走ってはいけない。
自分は、“聖職者”。
態度と心に、余裕を持っていなければ。
皆で作った、あの大きなゆきだるまにも、笑われている。
心が逸る。
気を引き締めろ。
顔がにやけてしまう。
でも、あの頃の凛とした自分でいなければ。
あの春の草原には、ランチバスケットとハーブティーが。
胸が熱い。
目尻が熱い。
膝が、身体が震えてしょうがない。
しゃんとしていないと、いけないのに。
いつか庭に作ったプールが、太陽の光を弾いて、眩しかった。
やっぱりだめだ。
顔も、頬も、涙腺も、緩んでしまう。
でも、いいか。
泣いてしまおう。そして、その後で、いっぱい笑おう。
――そうして、聖女はようやく辿り着いた。
この、大切な場所に。
自分の在るべき、場所に。
……皆、ただいま!
第二章 完
『Moon at Tomb』第二章、いかがだったでしょうか?
第二章第一話の初投稿が 06/12/08 であることを考えると、実に一年近くやっていたことに……遅筆もいいトコですね、自分は……
さて、続く第三章ですが、申し訳ありませんが連載をしばらく休止させていただきたいと考えています。
リアルが忙しい、ということと、第二章での失敗(詳しくは省略しますが)を省みて、第三章は骨組みが完成してからそれに肉付けして……という風に進めていきたい、つまりは第三章がある程度完成してからの投稿、ということにしたいと考えたからです。
見に来て下さっている方々、申し訳ありませんが、ご了承をお願い致します。
また、お目にかかれるよう、そのときはより良いものを届けられるよう、努力いたします。
長文、乱文、失礼致しました。また、ここまで読んで下さって、真にありがとうございました。