次から次へと呼びもしないのに
「おはようございます」
窓からは、うっかり見てしまうと頭痛がしてしまいそうなほどに眩しい光が斜めに差し込んでいる。鳥の声も人の声も時間とともに賑やかさを増し、扉の向こうではそろそろ一日を始めようとする活動の足音が否応なく朝を告げている。
「はい、おはよう」
ここが高級宿や贅を尽くした豪邸の客間だというのなら話も少しは違っただろう。朝のあいさつに続いてリバーの口からは
「てててて…」
という、年寄りのようなしわがれた声だった。
数時間とはいえ、さすがに床板の上に直に眠れば体はつらいらしい。バキバキととのする腰や肩を伸ばしながらゆっくりと立ち上がると、もうしっかりと熱を持った陽光が背中に突き刺さる。今日も暑い一日になるのは考えなくてもわかった。
「ここは?」
ベッドの上で微動だにせず天井を見つめる二つの目が、一度だけ瞬きをする。亜麻色の髪が枕を覆い隠すように広がり、昔話に聞く眠ったまま起きなくなってしまったお姫様の童話を思い出させる。
「宿の部屋。あんたが倒れてから六時間後。って、倒れた時の記憶があればの話だけどな」
「そうですか」
結局リバーは少女を連れて部屋に戻った。
倒れこむようにして支える少女の体は、比喩でも何でもなく羽のように軽く、月の青い光の元でなくともそうとわかるほどに血の気の失せた顔色は、しっかりとその疲労の濃さを物語っていた。
頭の中でいくつかの足し算と引き算がありはしたが、結局は凡百と言わざるを得ない答えに辿りついた。それも夜の酒の席なんかで話せば、根性無しか種なしと言われて笑い草にされるのが目に見えている。
かくして、意識を失った少女はベッドの上で目を開き、白馬の王子さまになり損ねた配達屋が板床の上でバキバキの体を鳴らしながら間抜けきわまるあくびををこぼしている。
「心配するな。持ってきてそこに置いただけだよ」
「なぜ」
少女が起き上がりながら、初めて見る種類の生き物を見るような視線を向けてきた。そりゃそうだろう、昨日の夜は欲望にまみれた男に追いかけまわされ、目が覚めてみればベッドの上の自分に指一本触れようとしない男が不機嫌そうに床に座っているのだ。
そういう意味の「なぜ」だと汲んだリバーは、めんどくさそうにぼりぼりと頭を掻きながら言葉を選ぶ。
「そりゃまぁ、俺の食指が動くような大人の女じゃなかったってことと、残念ながら俺も昼間の配達疲れで眠気に負けて寝ちまったから、ってことで納得?」
多少失礼かもしれないと思いはしたが、ここでの選択肢の失敗は男としての沽券にかかわる気がしたリバーは精いっぱいの強がりという札を切った。もちろん、多少のリスクは考えたが、難なくこの事態を収拾し、収束への一歩目を踏むには最良と信じて。
なのに、
それなのに、
少女はあろうことかゆっくりとした動作でベッドから滑り降り、あろうことかリバーの荷物に手を伸ばした。
「おい、それ俺の荷物」
言う間もなく少女は、それがまるで自分の荷物であるかのように鞄をあさると、財布やそのほかの金目のものが入っているところではなく、サイドポケットのいつでも取り出せるどうでもいいものの中から紙切れを一枚引っ張り出した。
「配達屋さん、なんですよね?」
「あ、あぁ」
まさかそこに食いつくのかと思いながら、リバーが少女の次の一手に目を見張る。
危険を感じたからではない、それなら何とでも対処のしようがある。そうしなかったのは完全に相手の手の内が見えなかったからだ。
「では」
ごくりと息をのんだのが自分だったことに、リバーが胸中で舌打ちをする。何となく少女に気圧されたような気がして悔しかったからだ。
そんなリバーの禅問答に近い自己欺瞞を無視するように少女の腕が動き、いつの間に引っ張り出したのか、リバーの鞄から抜き取ったボールペンで紙切れに何やら記入し始めていた。その時になって初めて、少女の手にする紙切れが送り状であることに気がついた。その間にも少女の手は紙の上で動き、途中で迷いながらも書き終えたらしいそれを、あろうことか
「私を」
ぺたりと、自分の額に張り付けた。
「配達してください」
少女の視線が突き刺さる。もちろん、それだけ突き刺さるのだから、今の一言が冗談ではないことぐらいは容易に想像ができたが、もちろんこれに二つ返事で首を縦に触れるほどに成熟した商売人でもなければ聖人君子でもない。
「は?」
凡百な答えでももう少しましな受け答えがあるだろうというような声を発したリバーは、まじまじと少女の額に張られた送り状の字面を追ってしまう
宛名も受取人も連絡先も書かれてはいなかったが、送り人だけがリバーにも理解できる共通言語で書かれていたため、少女の名だけが印象に残るという結果になってしまう。そのうえ、少女に次の一手を打たれてしまう。
「送れませんか?」
歪んだ扉を押し明け、昨日の夜は喧騒を背中に聞きながら歩いた廊下を逆向きに歩き、足をつくたびにきしむ階段を下りてモーニングをオーダーするためについたテーブルでどこか眠たそうなその声が頭の上から降ってきた。
「昨日はお楽しみだったようだね、大将」
頭上にあるのは女将の満面の笑み。
ギロチンの刃が降ってきてくれたほうが、まだ救いがあったかもしれない。
「モーニングは二人分だね。気にしなさんな、部屋代は一人分でかまわないよ」
全てお見通しだといった風に女将はウィンクをすると、早く呼んで来いとでも言うように顎をしゃくってリバーを二階へと促した。
というわけで、木製の丸いテーブルをはさんでリバーは少女とさし向ってコーヒーをすすっている。少女は送り状の送り主の欄に「ラシル」と拙い文字で書いていたのでおそらくはそれが名前であることは想像がついたが、本名であるかどうかはまだ怪しいと思っている。
「おい」
少女がパンを食べ終えた頃を見計らって声をかけると、まったく表情を表に出さない黒目がちな瞳がぴたりとリバーを見据える。
「冷静に考えてもみろ」
コーヒーのカップを置きながらリバーは慎重に言葉を選ぶ。
店中の視線が集中するこの場所の緊張感は、リバーがこの世で最も苦手とする種類のものだった。そもそも注目を浴びるだとか目立つといったことに縁がなく、どちらかと言えば日蔭者として荒野を一人で走る配達屋をしている時点で、コミュニケーション能力は人並み以下だという自負があった。最近でこそ、世渡りに必要なやり取りぐらいは身につけられたのかもしれないが、それも生きていく必要最低限のスキルでしかない。
そんな男が、あろうことか少女を目の前にして何十という視線の先に晒されている。しかも好奇の視線や、なかには好色そうな色を隠そうとすらしないものまでありありと見て取れる。
誰に言うでもなく、リバーの言葉がありもしない地雷を避けるようにあやふやな表現を選んでゆく。
「いくら俺が配達屋だってもな、その、なんだ、生き物だってそりゃ頼まれれば運ばないわけではないが、それも限度のある話だ」
口を開けば開くほどに自分で何が言いたいのかがわからなくなっていくのがわかったが、この時点でもうゴールを見失っているリバーを見る、周囲の目はすでに見世物を見るそれになっている。
「だからだな」
「連れて行ってはもらえませんか?」
「おぉ~」という歓声がどこからともなく漏れる。少女の言葉のチョイスはリバーにとっては最悪であり、観客にとっては待ってましたと言わんばかりのかみ合わせだった。これではどこからどう見ても旅の同行をせがむ女と、それをやっかむ男の構図だ。もちろんこういう場合のギャラリーは無責任に女の味方をするものと相場が決まっている。
「色男、つれてってやれよ」「何なら俺が連れて逃げようか、地の果てまで!」なんて無責任な声もちらほらと上がり始め、それをいなす女将の言葉にもいつもの迫力はない。
古典演劇でも大衆演劇でも何でもそうだが、恋に一途な女というのは常に応援されるものだ。
ただし、これがそんな穏やかなものではないことを知るリバーの心中は穏やかではない。
「あなたの次の配達先までで構いません」
しかも、さらりとこんなことまで言う。こうなっては、あくまで無表情な少女の顔も、見ようによっては思い詰めた鬼気迫る表情に見えるのだろう。
「だから、そういうことを言うとだな」
「私は旅を止めるわけにはいかないんです」
「だったらもっと他に方法があるだろう」
「しかし…」
少女が言葉に詰まったのは、あまりにも当たり前すぎる回答だったのだろう。もちろん、街から街への移動がどんなものかはこのあたりの気候風土を考えなくても並大抵ではないことは容易に想像ができるし、それが女の一人旅ともなれば何をかいわんやである。しかし、だからと言ってそれを実現する方法がないわけではない。実際に物資や人の流通は世界規模で行われている。
「ってことだ」
この時点で店内のリバーを除く全員がラシルに肩入れしており、リバーが口を開いている間にもそこかしこから「人でなし」だの「連れてってやれよ」だの、果ては「種なし」なんてヤジまでが飛び交っている。が、こうなってはもうそんなものに耳を貸している場合ではない。
「じゃあな」
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、カップを置いた音を合図にしたかのようにリバーが立ち上がる。これ以上は問答の余地なしという空気を存分に吐き出しながら少女の横をすり抜けるように歩き去ろうとする。
向けられる視線はすでに物理的な威力を獲得しているように、槍か矢のように背中に突き刺さっているが、もうここまで来てはヒールに徹するしかない。それが一番の選択肢だ、そう思って半ば自虐的に口元をつり上げて微笑んだリバーに、ついに声がかけられる。
「みーつけたーー!」
リバーが振り返る動作に合わせるように、店中に顔が全く同じ向きで、まったく同じ目線を投げた先はオレンジ色の朝日が差し込む、店の入り口だった。
力いっぱい開かれた扉がきしむような音を上げながら、外れなかったのが不思議だとばかりに揺れている。
「見つけたぞ、ちょこちょこと逃げ回りやがって!」
その場にいる全員の鼓膜が破裂するような甲高い声に、窓のガラスまでもがびりびりと震えたのは気のせいではない。それが証拠に、背後のバーカウンターでは重ねたグラスが小さく音を立てていた。
女の声で女とは思えない言葉が紡ぎだされている、とはたまたまカウンターの内側でかがんでいたマスターの談だ。
「今日という今日こそここであったが百年目―」
びしっと、音がするほどに鋭く突き出された人差し指はまっすぐにリバーを指し、腰にあてられた左手がいかに彼女が自信満々であるかを物語っているように、ぐっと血管を浮き上がらせている。力強いその立ち姿は、少女の身長が標準をはるかに割っていることに気付かせないほどだった。が、それでも誰もが気付くほどに小柄な少女は、髪の毛のてっぺんまで怒りをみなぎらせてさらに口を開く。芝居がかった口調に、先ほどまで恋愛もの寸劇の観客だったヤジ馬たちの熱気が膨れ上がる。これは見ものだとばかりに少女とリバーの間にあるテーブルやらなんやらを片づけて舞台を作っている奴らまでいる始末だ。
「積年の恨みとあたしらの生活費、ここで一気に大願成就だ!」
宿が揺れるほどの喝さいが上がった時には軽い頭痛すら覚えた。
お前ら働かなくてもいいのか、という言葉を飲み込んだリバーは呆れたようにがっくりとうなだれる。
「あのな」
たぶん聞く耳は持たないだろうと思っていたので、独り言のつもりでそう言ったリバーだったが、タイミング良く少女の耳に届いたらしく、自信満々に反り返っていた少女は訝しげな視線を向ける。
「勘違いもいい加減に」
「黙れ賞金首! 証拠は上がってるんだ。大人しく父さんと母さんの、街のみんなの敵として死んで賞金に変わりやがれ! ほら、いきな!」
一方的にまくしたてると少女は、定規で線でも引いたようにびしっと手を横に差し出し、無造作に隣にいた男の首根っこをひっ捕まえると投げ飛ばすようにそいつを店の中に放り込んだ。
「ちょ、姉ちゃん、何でいっつも俺なんだよ」
「うるさいわね、あんた女に斬った張ったさせるつもりなわけ?」
「そうじゃないけどさ」
どうやら姉弟であるらしい二人のやり取りに、もう面喰わなくなった観客はたぶん盛り上がれば何でもいいという境地に至ったのだろう。あろうことか女将までもが腰をおろして事の顛末を見守っている。
「あ、逃げるぞ!」
言わなくてもいいものを、せっかく全員の意識が二人に向いた瞬間を選んで物影を走ったのが意味を失ってしまう。
「こら、逃げるな!」
少女が何やら弟をどやしつけているが、どうやら弟には積もり積もった何かがあったらしく寸法で言えば親子ほども違うような姉に向かって猛然と抗議している。
「悪いなセフィ、俺もお前ら相手にするほど暇じゃないんでな」
一気に二階へと駆け上がる。背後では少女のほかにもありとあらゆる罵声が響き渡っていたが、もちろんこれが自分にとっての絶好のチャンスであることに疑いははさんでいなかった。
「どさくさまぎれってのがカッコ悪いけどこの際だ」
部屋に飛び込むと、同時に荷物を手に取り、一瞬だけ迷ってから飯代には少し多めの紙幣とチップ代わりの銀貨をベッドの上において、窓枠に足をかけた。窓は昨日の夜から明けたまま。見下ろせばまるでこの事態を見越したかのようにバイクのテールが物置の屋根からはみ出して見えている。
ためらったのはほんの一瞬。ラシルの必死すぎるほどにまっすぐな瞳が脳裏に浮かび、もう自分にはあんな目はできないのだろうと自嘲しながら頭を振る。
砂ぼこりを巻き上げながら着地すると、しびれる足をごまかしてバイクに飛び乗る。荷物を側車のシートに放り込むと、野宿用の毛布がほこりを巻き上げながら荷物を受け取る。ポケットから引っ張り出したキーをシリンダーに突っ込み、キックペダルに足をかけて一気に踏み込んだ。
本当ならエンジンの暖機なしに負荷はかけたくはないのだがこの際贅沢は言っていられない。
「あの野郎、外だ!」
完全に見物客と化していた男が一人、窓から身を乗り出すようにしてこちらを指差しているがもちろんもう遅い。一気にスロットルを回し、クラッチをつなぎながらテールを滑らせ、百八十度回転したところで一気にタイヤをグリップさせる。
ありとあらゆる種類の歓声と怒号の中ではっきりと聞こえたのは予想通り、甲高くもハリのある少女の声。
「ちっくしょ~! おぼえてやがれー!」
ドップラー効果を引き起こすほどの加速で漆黒のバイクが、舗装されていない道路を砂煙を巻き上げながら駆け抜けてゆく。




