新田次郎の文章
その年の暮であった。当時の気象研究所長の大谷東平さんが、私を学士会館の地下室のレストランに呼び出した。昼食をつきあわないかという電話があったときへんだなと思ったが、いざ食事が終わったところで彼が言うには、私に気象庁をやめる意志はないかとのことだった。端的に言えば「やめろ」ということなので、私にとってはまさに青天の霹靂だった。なぜやめねばならないのか、いったいそんなことを誰に頼まれたのかと訊くと、
「気象庁は全体的に高年齢化し、人事が頭打ちになってしまって、どうにもこうにもやり切れなくなっている。中央の課長が一人でもやめると、それに伴って多くの人が昇任できる。君は辞めても小説の方で充分やっていけるだろうから、後輩のために道を開いてくれないか」
とのことだった。私と大谷東平さんとが比較的親しくしていることを知っている人事課長が、大谷東平さんを通じて行った辞職勧誘だった。
「自分のことは自分で決めます。他人の指図は受けません」
私は大先輩の大谷さんの前で言った。彼は私の剣幕にひどく驚いたようだった。この夜、私は一晩寝ずに考えた。この二年間、富士山気象レーダー建設にかけていた私の情熱は、やはり気象事業を愛するからであった。その仕事が終わると同時に出て行けと言わんばかりに告げられたのが悔しかった。しかし、上部の人たちがそういう気持ちでいるならば、もはや私はこれ以上長居すべきではないと思った。翌日の朝早く、気象庁に出かけて行き、吉武素二観測部長に会って辞意を表明した。吉武部長は、人事課長に言われたのかと訊いた。いや大谷さんに言われたのだと言うと、意外だという顔で言った。
「実はそのことを人事課長に言われたから、私は拒わった。富士山気象レーダーはまだ実験局だ。実用免許が降りるのはあと一年かかるし、来年度(昭和四十年)は、国連気象機構の気象測器観測部会の国際会議が東京で行われる。これにもあなたが一役買って貰わねばならない。やめて貰っては困る」
吉武さんに引き止められたので、私は人事課長室へ行くのは止めた。しかし、この瞬間、私は来年の今日になったら、自分自身で辞表を出そうと思った。
吉武素二観測部長は私を引き止めたが、それはあと一年だけのことであり、満六十歳の定年までとどまれとは言わなかった。おそらく上層部では、一日でも早く私を辞めさせることによって人事の刷新を図ろうとしているに違いない。そのことは私自身にも痛いほど分かっていた。終戦と同時に気象庁は、従来の気象台の職員の他に、海外地にいた気象関係者、陸海軍気象部関係者まで引き受けてしまった。終戦時二十歳の人も既に四十歳である。四十歳になって係長にもなれない人がごろごろしている実情だった。中央の課長が一人辞めると、その異動に伴って中央だけでも課長、課長補佐、専門官、係長、技術主任という具合に次々と昇格又は昇任の道が開け、さらに地方官署にまで影響を及ぼすことを考慮すると、私一人辞めることによって、十人は浮上することになる。富士山気象レーダーの仕事が終わると同時にやめることは、自分自身の第二の人生のスタートとしても悪くないと、




