ビートルズのベートベン月光ソナタ
ビートルズのベートベン月光ソナタ
一九六九年の昼下がり。ジョンの耳に、ヨーコがピアノで弾くベートーヴェンの「月光」が流れた。
その厳かな旋律を聴きながら、彼の脳裏に、
かつて自分たちが実験を繰り返した「逆回転」の幻聴が重なる。
「もし、この『月光』を逆回転させたら、どんな音楽になるだろうか」
その突飛な空想が、すべての始まりだった。ジョンはピアノの前に座り、逆回転させた時に生まれるであろう奇妙な音の連なりを、ギターのコードへと翻訳し始める。
それは既存の音楽理論を無視した、時間の流れに抗うような不敵な試みだった。
スタジオへと持ち込まれたそのアイディアは、ジョン、ポール、ジョージという三人の類まれなる喉によって、さらに異次元のものへと昇華される。彼らが求めたのは、単なる美しい調和ではない。
この世のどこにも存在しない、耳を疑うような未知の音響体験だ。
三人は、精密に計算された三部合唱をマイクに吹き込む。
そして、その録音された自分たちの歌声をヘッドフォンで聴きながら、
さらに同じ旋律を重ね、さらにもう一度。
三×三、すなわち九つの声が重なった九重音。
それはもはや人間の歌声であることを超え、巨大な光の柱が立ち昇るような、
圧倒的で不気味なほどの厚みを持った音の塊へと変貌した。
そこに名編集者マーティンがモーグ・シンセサイザーの波打つような電子音が加わり、
実体のない浮遊感が空間を支配する。
「月光」という古典の残像を逆回転の発想で解体し、
九つの魂を塗り重ねて作り上げたそのサウンドは、
解散を目前にした彼らが最後に辿り着いた、音楽という名の聖域だった。




