第18話 空の倉庫
翌朝は、空気の冷え方が一段深かった。
窓の内側まで白く曇っている。
館の使用人が火を起こして回っているが、広い建物の隅々までは温まらない。
王都なら、朝の暖炉はもっと余裕を持って燃えていた。
ここでは薪も熱も、節約して使うものらしい。
朝食の席へ出ると、昨日の中年文官がすでに待っていた。
その後ろに、猫背ぎみの男と、小柄な老人が立っている。
「お約束通り、倉庫をご案内いたします」
「助かる」
レオンは二人へ視線を向けた。
「こちらは旧倉庫番のバルト・クライン。現場の鍵と搬入出の立ち会いを担当しております。こちらは老書記ヘルマン。古い保管記録に通じておりますので」
二人とも礼は取った。
だが反応は正反対だった。
バルトは怯えている。
目が泳ぎ、背中が丸い。
一方のヘルマンは老人らしく無愛想で、王族相手でも必要以上に頭を下げる気はなさそうだった。
「朝から面倒なことになりましたな、殿下」
ヘルマンが言う。
「歓迎してくれてるようには聞こえないな」
「歓迎より先に数字を見るお方は珍しいもので」
嫌味とも、皮肉ともつかない。
ただ、その声にはほんの少しだけ試す響きがあった。
「珍しいのは、こっちも同じだよ」
レオンが答えると、ヘルマンは片眉を上げた。
それ以上は何も言わない。
倉庫は市場の裏手、兵舎寄りの区画にあった。
石造りの建物が三棟。
うち一棟は扉がゆがみ、補修の木板が打たれている。
二棟目は一応使われているらしいが、周辺の地面が妙に踏み荒らされていた。
三棟目は鍵が二つかかっている。
「順に見せてくれ」
レオンが言うと、バルトが慌てて前へ出た。
鍵束を鳴らしながら扉を開ける。
古い穀物と湿った藁の匂いが流れ出た。
中へ入った瞬間、レオンは歩みを少しだけ緩めた。
空間が、広すぎる。
袋は積まれている。
樽もある。
だが、それで埋まっていない。
本来もっと物があるはずの倉庫の余白が、そのまま冷えていた。
「第一保管庫でございます」
文官が言う。
「主に穀物、塩、干し肉などの保存分を」
「“主に”なのに、空きが多いな」
男は笑おうとして失敗したみたいな顔になる。
「冬前で消費が重なっておりますので」
もっともらしい。
だが、もっともらしいだけだ。
レオンは積まれた袋の前でしゃがんだ。
口を縛る紐は古い。
新しく入ったばかりの張りではない。
袋の麻布も擦れている。
一つ持ち上げる。
軽い。
「殿下」
護衛が止めかけるが、レオンは首を振った。
「この袋、表示は大麦二十だよな」
バルトが小さく答える。
「……はい」
「でも、持った感じがそこまでない」
「詰め直しが、あるので」
「詰め直し?」
今度はヘルマンが口を挟んだ。
「破れた袋の中身を移し替えることはあります。北は袋そのものも傷みますので」
それ自体は自然だった。
レオンも頷く。
「それは分かる。問題は量だ」
別の袋へ手をかける。
こっちはさらに軽い。
中を確認すると、上の方は粒があるのに、奥は思ったより浅い。
見せるために前だけ整えたような薄さだった。
セリスが棚を一列見て、静かに言う。
「入庫札の日付が古いですね」
「今年の分です」
文官がすぐ返す。
「秋口に入った分が主でして」
「秋口に入ったなら、減りすぎでは?」
セリスの問いに、男は今度は少し間を置いた。
「村への配分と、兵舎分、それに難民への臨時放出が」
昨日も聞いた言葉が、もう並び始めている。
第二保管庫を見る。
こちらはもっと露骨だった。
棚が空いている。
樽の数も足りない。
壁際へ寄せた藁束が、空いた部分を狭く見せようとしているのが分かる。
レオンは何も言わず、通路の端から端まで歩いた。
歩数で測る必要はない。
体感で十分だった。
王都の倉庫でも、年度末や徴発直後なら薄くなることはある。
だが、これは一時的な薄さではない。
長く欠け続けた場所の空き方だ。
「塩は」
「この樽です」
「乾菜は」
「そちらに」
「兵糧用の干し肉は」
「別庫へ」
「別庫はどこ」
質問するたび、返事が少しずつ遅くなった。
三棟目の前で、バルトの手がはっきり震えた。
鍵を差し込み、回す。
扉が開く。
中は冷たかった。
そして、やはり広かった。
あるにはある。
だが冬を前にした領都の備蓄としては、少ない。
少なすぎる。
積み上がった袋の列と列のあいだに、妙な隙間がある。
本来なら奥まで並ぶはずの形なのに、途中で切れている。
樽の底板には新しい引きずり跡もあった。
「最近、移したのか」
レオンが床を見ながら聞くと、バルトがびくっと肩を揺らした。
「……一部は」
「どこへ」
「その、村の臨時庫や、兵の前線詰め所へ」
「記録は残ってる?」
バルトは答えず、文官の方を見た。
それだけで十分だった。
ヘルマンが低く鼻を鳴らす。
「残っておれば、話は早いんですがな」
文官の顔がわずかに引きつる。
「老書記」
「事実を言っただけです」
この老人は敵にも味方にもならないタイプかもしれない、とレオンは思った。
だが、少なくとも数字を雑に扱う側ではなさそうだった。
倉庫の中央で立ち止まり、レオンはゆっくりと全体を見渡した。
門前の流民。
沈んだ市場。
疲れた兵。
そして、この空きすぎた倉庫。
一つずつなら言い逃れできる。
だが四つ並ぶと、もう無理だ。
「帳簿を見せてくれ」
文官が慌てて答える。
「概要なら、こちらに」
差し出された紙は整理されていた。
数字も読みやすい。
ぱっと見では、致命的には見えない。
むしろ、薄いながらも何とか冬を越せるように整えた報告書だ。
レオンは紙を受け取り、倉庫の中を見たまま問う。
「この数字、今見た中身と合ってないな」
誰もすぐには返事をしなかった。
セリスが紙の端をのぞき込む。
ヘルマンが黙ったまま口を曲げる。
バルトは目を伏せた。
「帳簿上では」
レオンは静かに言った。
「ここが、もっと埋まっているはずだ」




