最終章 スペインの城
四月の日曜日、遅く起きて、遅い朝食を食べた後、正夫は所在なく部屋でぼんやりとしていた。
本棚の上で、花蓮がくれた木彫りの人形が黙って彼を見つめている。
玄関で妻と娘の声がした。どこかに出掛けるつもりらしい。
正夫は部屋から顔を出し、声を掛けた。
「どこか行くの?」
「ええ、新しく出来たスーパーに」
「遠いの?車で行くの?」
「ちょっと離れてるけど、天気もいいから散歩がてら歩いて行きます」
「じゃあ、一緒に行くよ。すぐ用意するから待っててくれ」
急いで身支度をすると、降りて行った。
よく晴れた暖かな日で、空気は澄み、軽装で散歩をするには絶好の日和であった。
三人揃って、こうして歩くのは久しぶりだなと思った。
動物学的にいうと、人間の寿命は三十歳余りだそうだ。
種の保存というか、子を産み、成人に育てることがすべての動物の使命であり、それを全うした時、死を迎える。人間も当然、自然のその摂理の範疇にいる。
十五歳で子供を産み、その子が十五歳になった時が三十歳になるわけで、人間の寿命がそこで尽きるのはごく自然なことだ。
それが医学や栄養学や衛生学、文明が与えてくれたさまざまな恩恵のおかげで、五十年以上も寿命を伸ばすことができるようになった。
そういう意味では子供が成人してからの人生というものは、いわば貰いものの人生だ。
しかし、使命を全うした後の貰いものの時間だからこそ、自分のやりたいことに使えるのではないだろうか?
定年は人生の終わりではなく、貰いものの人生の始まりだ。
「再就職は断ろうと思う」
「え?突然、何なの?退職だけするのですか?」
「うん。今年度で退職して、司法試験の勉強をしようと思っている」
「え?なに?お父さん、司法試験を受けるつもりなの?」
「弁護士になるのがお父さんの若い時からの夢だったのよ。それがお父さんが大学の時にお祖父様が亡くなって、お祖母様も体が弱かったのね。それでお父さんは諦めて、こっちに戻って、県庁に勤めたのよ」
「へえー、そんなこと初耳だわ。私は大賛成。その歳で新しいことにチャレンジするなんて、なんかお父さん、カッコいい。頑張ってよ」
「そうね。お金の心配はしなくても大丈夫よ。預金もある程度はあるし、年金があるし、退職金も入るし」
「大学を出たら私が働いて食べさせてあげるからね」
「それより留年したりしないでくれよ」
「大丈夫よ。私はこれでも成績は良いんだから」
娘が足を止めた。
「ねえ、見て、お母さん。とてもきれい」
おびただしい数のレンゲ草が広い田圃一面に咲いていた。薄い青色の空の下、赤みがかった薄紫色の小さな花が土地一面を覆っていた。
「なんか私、こんなきれいな景色を見たのは久しぶりな感じがするわ」
「そうねえ。お母さんも久しぶり。最近はレンゲ畑は見ることないわね」
「ねえ、どうしてレンゲ草って田圃に咲いているの?」
「それは肥料にするためなのよ。もう少し経ったら、田圃に敷き込み、肥料にされるのよ」
「えー、そうなの。レンゲってなんか可哀相ね。こんなにきれいなのに、犠牲になるわけね」
「でもね、レンゲは丈夫なのよ。新しく種を蒔かなくても、地下に根をはっていて、二、三年後にまた芽を出してくるのよ」
「見かけは小さくて弱々しいのに、強いのね。こういうのを見てたら、田舎はいいなあと思うわ。大学出たら東京に就職しようと思っていたんだけど、やっぱりここにいようかな?」
「なに?あなた、そんなこと考えていたの?」
正夫は、妻と娘の話をぼんやりと聞きながら、立ち止まって、一面に広がるレンゲ畑を見ていた。モンシロチョウが二匹、透き通った日差しの中で縺れたり離れたりしながら飛んでいる。
花蓮は本当にレンゲのような人だ。
自分を犠牲にして、人のために生き、時には踏みつけられてきた。
しかし、見た目はひ弱だが、レンゲはしぶとい。少々のことではへこたれない。倒されても、また芽を出し、花を咲かす強さを持っている。
あれ以降、花蓮からの連絡はない。
正夫は電話番号もメールアドレスも変えなかったし、彼女の登録も消さなかった。
それは花蓮がどうしようもないほど苦しい時に連絡出来るようにしておきたいからだ、そう自分に言い聞かせていたのだが、本当は未練の方が大きかったのかもしれない。
私のことなど忘れて生きてくれと花蓮は言ったが、そんなことは出来る筈がない。
以前の僕なら、お前の生きてきた証しは何だ、と尋ねられたら、子供を育てたこと、そして自分の血が子から孫に、孫からその子供にと永遠に残ることと答えただろう。それが人生というもので、それで十分だと思っていた。
しかし、今の僕には、もう一段高みに浮かび上がろうという気持ちがある。飛び立とうとする意志と力と情熱は君がくれたものだ。
ねえ、花蓮。スペインの城って知っているかい?
大昔のイギリス人にとって、スペインは遠く離れた国で、それは空想でしか思い描けない世界だったらしい。
空想の城は憧れの土地となり、いつしか憧れの世界のことをスペインの城と呼ぶようになったらしい。
しかし、空想はそれが実現した時、現実に変わる。
いくら遠く離れていようとも、海を渡り、延々と歩き続ければ、長い年月の後、いずれはスペインの城に辿り着くことが出来る。
その時、憧れの城は実在の城になる。
僕も今から歩き始める。
死ぬまでに、スペインの城に行き着くことが出来ないかもしれないが、歩き続ける。
それが僕が生きてきた証しなのだから。
それが、花蓮、君と出会った証しなのだから。
「お父さん、なにしてるの?」
気が付くと、妻と娘は十数メートル先に進んでいた。立ち止まり、こちらを向いて笑いながら手を振っている。
正夫は妻と娘の待つ方へと駆けていった。
レンゲの花が風に微かに揺れていた。




