第78章 愛のアンセム
バスルームから出ると、部屋はフットライトが点いているだけで、他の明かりはすべて消されていた。
花蓮はベッドに入って、目を閉じていた。
掛け毛布の端を上げ、彼女の横に体を入れた時、正夫は彼女が小刻みに震えているのに気がついた。
生娘に戻ったかのように身体を固く閉じていた。
彼は手を伸ばすと、枕元にあるスイッチを押して、部屋の明かりをつけた。彼女の身体を目に焼き付きたかった。
「いや、明かりはつけないで」
「この魔法使いは年寄りで目が悪いから、暗かったら、魔法は掛けられないのじゃ」
「もう、エッチなんだからあ」
そう言いながら、花連は手で顔を覆った。
正夫は掛け毛布を払いのけた。彼女の細く白い肢体は目に眩しいほどに美しかった。
「ねえ、私の身体、汚くない?汚れていない?」
「大丈夫、すごくきれいだよ」
正夫は慈しむように彼女を抱きしめた。
「いくよ」
そう言うと、花蓮は顔から手をのけ、目を瞑ったまま口を真一文字に結んで、こくりと頷いた。
ウッと呻いて、彼女が顔をしかめた。
「痛かった?もうやめようか?」
「……ううん、大丈夫。……続けて」
しばらくすると、彼女の身体が緩んできた。
また声を発した。
正夫は動きを止めた。
「痛いの?」
彼女は首を振った。
「ううん、止めないで。気持ちいいの」
彼女は目を瞑ったまま満面の笑みを浮かべた。
「なんか感じることが嬉しくって嬉しくって。……私、普通になったのね。これでお嫁に行けるよね?」
正夫は娘の高校時代の文集を思い出した。それには将来の夢という欄があり、みんながそれぞれ教師、保育士、看護師や医師に薬剤師、さまざまな職業を書いていた。お嫁さんというのは一人もいなかった。
しかし、花連だけでなく、風俗嬢の将来の夢はお嫁さんというのが非常に多い。
娘のような普通の子にとっては、結婚することは当たり前のことなので、夢にはなり得ないのだろう。
しかし、花連のような子にとっては、結婚は夢のような憧れなのだろう。
正夫は彼女がこれまで経験してきた苦しみや苦痛や苦悩の深さを考えた。
この子は平凡な結婚というものを手に入れるために、これまでどれだけ悩み、苦しんできたのだろう。そして、その苦悩は今後も続くのだろうか?いつになったら、彼女はこの呪縛から解き放たれるのだろうか?
「私、普通になったのね。これでお嫁に行けるよね」
花連、花連。そんな男と結婚するなんて、もうやめろよ。僕ならすべてを受け入れることが出来る。すべてを受け入れたうえで君を愛することが出来る。あんな男と結婚することはやめ、僕と一緒に逃げよう。
どこか見知らぬ土地に行こう。だれも知っている人がいない、どこか遠い土地に行こう。
どこがいい? 北海道にしようか?
いや、スペインに行こう。陽光が溢れ、爽やかな風が吹き抜けているスペインの小さな白壁のアパートメントの一室で、二人だけで穏やかでゆったりとした時を過ごそう。
正夫はそう言いたかった。
言葉が喉元まで出かかっていた。
しかし、それは言えなかった。
家族、地位、家、財産……捨て去るには三十余年の歳月はあまりに長すぎた。
花連の姿がぼやけた。
涙が一筋、正夫の頬を伝わり、花連の首筋に落ちた。
「?」
花連は大きく目を見開いた。
「どうしたの?川村さん、泣いてるの?」
「……」
正夫は言葉が出なかった。彼女が愛おしくて愛おしくて堪らなかった。
花蓮、今まで苦しんできた分、君の未来にはいっぱい、いっぱい幸せが待っているよ。きっと幸せになれるよ。
そう願った刹那、甘酸っぱいものが鼻腔の奥に込み上げて来た。嗚咽が洩れた。
「ねえ、どうしたの?」
「……」
言葉が出なかった。
「ねえ、どうして泣いているの?」
「……」
しばらくして、ようやく言葉が出た。
「……気持ちがいいから」
「……え?それで泣いてるの?嬉し泣きなの?」
「……うん」
花蓮は吹き出した。
「バカね。こんな時でもバカなことばかり言って。ホントにバカね」
彼女は弾けるように笑った。そして、彼の顔を引き寄せ、唇を彼の耳元に近づけると、そっと囁いた。
「気持ちい?」




