第70章
部屋に入ると、彼女は歓声を上げた。
「わあー!すごく広い。このベッド、めちゃめちゃ大きい。これでシングルなの?」
「こういう高級ホテルはシングルはないんだよ。一人しか泊まらないので、ツインにしても無駄なので、ダブルにした」
「うん。ダブルの方がいいよ。ひっついて寝た方が気持ちいいから」
またどきりとする。
そんな彼の気持ちは知らずに、花蓮はあちこちを見ては感想を言った。
「応接セットもあるし。机もドレッサーもある。金庫もあるし、空気清浄機もあるし」
それから冷蔵庫を開けて中を見ていたと思うと、「びっくりしたあ。このコーラ、800円もする」と言った。
正夫はからかいたくなって、デスクの上にある食事の案内を書いている小冊子を指して、「ルームサービスの夜食のさぬきうどんのところを見てごらん」と言うと、花蓮はデスクの前の椅子に座り、小冊子を捲って、「はへー」と魂が抜けたような声を出した。
彼は爆笑した。
「おったまげた。3100円!世の中にはこんな高いうどんを食べる人がいるのね」と溜息をついた。
それから、彼女はホテルの館内案内の本を熱心に読み始めた。
「本当に泊まるのでいいんだな?泊まるならフロントに宿泊人数を増やすと言って、明日の朝食も予約しておくから」
「うん。もちろん。添い寝だけかもしれないけどね。……朝食、すごく楽しみ」
電話を終えた後、彼女を見ると、結婚式場の写真を見つけたらしく、それを食い入るように見ていた。
そして、気がついたように、「ねえ、部下の女の人はここでお式を挙げるの?」と言った。
「いや、別のホテルだよ」
「そうなんだ。こんなホテルで結婚式を挙げたらステキよねえ。憧れるわ。私なんか、神社なんだもん。披露宴はなんとか会館だし……、なんか田舎臭くって。いやになっちゃう」
「そんなこと言っちゃあ駄目だよ。十分幸せなんだろう?」
花蓮は真剣な表情になった。
「うん、そうですよね。これ以上、贅沢言ったらいけませんね。私、幸せすぎるぐらいなんです」
それから、言葉を切った。
「……それでね、私、不安なの。きっとばちが当たるんじゃないかって、恐いの。……ここ、座ってもいい?」
彼女はベッドの縁に腰を下ろした。
正夫も彼女の隣に座った。ちょうど店の部屋でよくしていたのと同じ格好だった。
「さっき、私、痩せたって言いましたよね。本当に色々忙しかったせいもあるんだけど、実を言うと、最近、夜眠れないっていうか、熟睡出来ないの。なんかいやーな夢ばかり見るの」
「どんな?」
「いくつかパターンがあるんだけど……。一番よく見るのはね、私と婚約者が並んで歩いているの。そしたら、店のお客さんだった人が近づいて来て、彼に「あんたの嫁さんは淫売をしていました」って言うの。それから突然、そのお客さんの顔はブクブクと膨れて、緑色に変わって、ゾンビのようになるの。「そんなの嘘よ」って彼に言おうとすると、彼もゾンビのような顔になって、怒ったように私を睨み付けて「騙したな」と言う。
それから、「どうした、どうした」って言いながら、彼の両親や親戚の人や友人がどんどん集まってきて、みんなブクブクした緑色の顔の怪物になって、私を取り囲んで、「騙したのか」「悪い女だ」「汚らわしい」「この嘘つき」とか、みんな怒って、口々に罵るの。
それで、私は泣きながら、「もう、やめてえー!許してください!」って悲鳴を上げたら、目が覚めて、ああ、今のは夢だったんだって、ほっとするんだけど、起きてからも全身が冷や汗でびっしょりだし、なんかネバネバした感じが心に残って、ずうーっとイヤな感じが続くの」
ブルッと身体を震わせると、花連は眉を顰めた。
正夫は彼女のか細い肩の上に優しく手を置いた。
「なあ、彼に全部話してしまえよ。そうすれば、すっきりするよ。彼も本当に君のことを愛しているなら、そんな過去の事なんか許してくれるよ」
「そんなこと出来るわけないでしょ。彼、絶対に許してくれないわ。私のこと処女だと信じているぐらいだから。きっと気絶するか、それこそゾンビのようになって怒り狂うかどちらよ。それにもし彼が許してくれたとしても、お義母さんは絶対に許してくれないわ」
「そうか、それは無理か……」
「絶対に無理よ」
「それならもっと現実的に考えたらいい。僕は心理学を勉強したことはないけど、君の心の底には、みんなを騙しているという罪悪感と過去がバレた時の恐怖心があって、それが悪夢の形となって現れているのは間違いない。
短期間で、しかもとんとん拍子に結婚まで来たから、その順調さが逆に不安に繋がっているのだと思う。でも、現実的に考えた場合、君の過去が暴かれることはありえない。今まで、店の外で偶然客と会ったことがあるかい?」
「お店の周りなら、何度かある」
「その他のところは?」
「他の場所で、会ったことは、……うーん、一回、いや二回あったかもしれない」
「そうだろ。7年も勤めていて、しかも東京に住んでいても一、二回しかないのだから、M市に住んだら会うことはないよ」
「でも、二回会ってるんだよ。それに披露宴も私の方は少ないけれど、彼の方の出席者は多いので、もしかしたら、その中にも私を知っている人がいるかもしれない」
「そんなのあり得ないよ。君は被害妄想になっているよ。披露宴の客の中に店で君に会った客がいる確率は一億分の一もないよ。
それに君は自分では気づかないだろうが、表情がくるくる変わって、すごく捕らえどころのない顔をしている。店の中と外で見る時では随分印象が違う。これまでも友達から分からなかったって言われたことがあるだろう?」
「うん、感じが違うから気が付かなかったって言われたことは何度かあるわ」
「そうだろう?髪型を変え、化粧の仕方を変えたら、別人になるよ。
それと男性の方が女性より顔に対する記憶力が悪いという話を聞いたこともある。
君は記憶力がいいから、客のことをよく覚えているのだろうけど、それを忘れようと努力するんだ」
「私、頭悪いのに、妙に記憶力がいいところがあって、学校でも数学や理科はさっぱりだったけど、漢字や単語を覚えるのは得意だったわ。でも、私が忘れたら、もし会っても気づかれないの?」
「こちらが反応するから、向こうも気づくんだよ。こちらが覚えていなければ、向こうも気づかないし、もし気づいても無反応なら、別人だったのかなと思うよ」
「ふーん、そんなものかな」と彼女は呟くと、足をブラブラさせた。
彼女が何かを考えている時のいつもの癖だ。
「そういうもんだよ」
「よーし、分かったぞう。そのとおりにします。川村さんの言うようにしたら、いつも間違いないからね」
彼女はそう言うと、いきなり正夫に抱きついてきた。が、彼が腕を廻そうとすると、彼女はするりと身をかわし、
「ああ、恐い夢の話をしたから、恐くなっちゃった。おしっこしてくるね。覗いちゃダメだよ」と言って、小走りでトイレに行った。




