第49章
正夫には父親が遺してくれた株式があった。大した額ではなかったが、これまで一度も売ったことはなかった。
しかし、今日花蓮に会うために、初めてその一部を売った。その思いが正夫をさらに苛立たせた。
「一介の地方公務員である俺がわざわざ東京まで君に会いに来ることが、どれだけ大変なことなのか分かっているのか?」
「そ、そんなこと言われたって。私、……どうしたらいいか分かんない」
確かに彼女の言う通りだ。自分が勝手に通っているだけで、彼女の責任ではない。
言うべきことではなかった、という後悔の思いが、さらに正夫を興奮させた。
「とにかく、今日はもう帰る」
「え?」
花蓮の顔に狼狽の色が走った。
「ちょっと待って」
そう言うと、部屋から出ていこうとした。
正夫は彼女の腕を掴んだ。
「どこに行くんだ」
「待機室に行くの。お財布を取りに。だって、今日、川村さんは何もしていないんだから。私がお店のお金は返すわ」
「馬鹿なことを言うな。そんな金はいらないよ。何もしてないなんてことはないよ。君の裸を見せて貰ったし、キスもしたし、身体も触った。お金を払うのは当然だ。君はプロなんだろう。そしたら、お金を返すなんて言うなよ。君は立派なプロだ。……風俗のプロ中のプロで、風俗嬢のカガミだ」
「ひどいよ。そんな言い方しなくったっていいでしょう。風俗のプロ中のプロだなんて、なんか……淫乱って言ってるみたいじゃない……」
花蓮は力が抜けたようにベットに腰を落とすと、両手で顔を覆って、泣き始めた。
そういう意味じゃないと思いながら、正夫は何も言えずに突っ立っていた。
「私だって、世間がこんな仕事を軽蔑しているのは知ってるわ。こんな仕事は……淫売って言うんでしょ……。イ・ン・バ・イ、ひどく嫌な響きだわ」
正夫は頭に血が上ったあまりに思わず心ないことを口走ったことを後悔した。
彼女とはもうこれで終わりかもしれない。
彼は立ち上がり、よろよろと歩いて、上着を取りに行った。壁のフックからハンガーを外し、上着を手に取った。その時、上着のポケットの中にまだ渡していなかった誕生日プレゼントが入っているのに気がついた。
振り帰ると、視線を感じたのか彼女は顔を上げ、手の甲で涙を拭いながら、立ち上がった。
それから、正夫のところに来て、両手を身体の前で合わし、ぴょこんと頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
正夫は自分が彼女を心底から愛していること、彼女なしではいられないことに気がついた。
美鈴の口車に乗って美鈴と遊んだように言っているが、それは真実ではない。美鈴の強引さに押し切られたところも確かにあったが、美鈴の肉体に欲情を覚えたので彼女を抱いたというのが本当のところだ。
俺はひどい男だ。妻を裏切り、今、花蓮も裏切った。
正夫は上着のポケットからシルバーのブローチの入った小箱を出すと、やさしく花蓮の手を取って、それを手のひらに置いた。
「遅くなったけど。誕生日、おめでとう。本当はもっと高い物を買いたかったのだけど、安物しか買えなかった。だけど、受け取ってくれ」
そう言うと、突然、花蓮はその場にしゃがみ込み、号泣し始めた。
「悪かった。ひどいことを言ってしまった。本心じゃない。許してくれ」
正夫は彼女を抱き起こし、ベッドに座らせた。
彼女はティシュボックスからティシュを取り出し、涙と鼻水を拭い、丸めて床に投げ捨てた。幼な子のように泣きじゃくりながら、その行為を何度も繰り返した。ペースが次第に早くなっていく。
正夫は彼女の背中をさすりながら、黙って眺めていた。
薄暗いオレンジ色の明かりの中で、ティシュの白く丸い塊が床の上に次々と増えてゆく。
その光景はなんとも切なく哀しかった。




