第3章
正夫が東京に来たのは、娘の大学受験のためであった。私立の女子大を受けることになり、妻が付いてゆく予定だったが、出発の五日前に高熱を出して寝込んでしまった。
「一人で大丈夫」と、娘は一人旅をするような気分になっているらしく、正夫が同行するのを嫌がったが、
「お父さんの方がお前より東京の地理には詳しい。なにしろ四年間東京に住んでいたのだから」
「一体何年前の話よ」と、口をとがらす娘に対して、いつもは娘側に立つ妻も今回は受験ということで心配だったのか、正夫と一緒に説得する側にまわった。
そして、有給休暇を取り、半ば強制的に東京に付いて来た。
受験日の朝、正夫は女子大の近くの地下鉄の駅まで付いて行き、その後、その足で大学時代に住んでいた東京の郊外の町を訪れてみることにした。
受験が終わるのをただ待っているのも所在ないので、この際、学生時代に住んでいたアパートがどうなっているのか見に行こうと、何か冒険をするようなわくわくする気分であった。
だが、町はすっかり様変わりしていた。
巨大なタワーマンションが何棟も立っていて、正夫の住んでいた辺りもタワーマンションに変わっていた。アパートだけでなく、よく通っていた食堂も蕎麦屋も理髪店も全てなくなっていた。
四十年近くも経つのだから、変わっているのは当然予想していたが、記憶のかけらも残っていないほどの大きな変化を目の当たりにするとは思いもしなかった。唖然とした。
時の流れはいつも自分の老いを意識させる。
意識の中では自分の年齢は三十代半ばで止まっている。
だが、鏡に写った自分の姿や写真や動画に撮られた自分の姿に、時折不意打ちを喰らう。
それは意識の中の若々しい溌剌とした自分の姿とは違い、別人のように老いさらばえた男の姿だ。
そんな時、彼はいつもため息をつきたくなるような、力の抜けるような、心がカサカサに乾いてゆくような気分になる。
そのうえ、数年前からはその気分に死のイメージが伴うようになってきた。死の影に襲われる回数は歳をとるにつれ、確実に増えていた。
老いも死もどうしようもない。逃れることは出来ない。
そう頭では理解しているものの、心が萎え、乾いた気分に支配されるのは抗いようがなかった。
行かなければよかった。正夫は悔いた。東京見物でもしながらゆっくり過ごせばよかった。
そんな時に彼女に出会ったのは運命の女神の気まぐれだったのかもしれない。運命の女神が正夫の平々凡々とした人生に、それも終盤に差し掛かる歳になって、戯れに彼女というスパイスの雫を垂らしたのをかもしれない。
後になって、正夫にはそう思われた。