第1章 邂逅
30万本の色とりどりの花々に捧ぐ
ひどく寒い日だった。
昼前なのに微かに風花が舞っている。
地下鉄の構内が暖かったためか、路上に出ると、ことさら寒さが身に染みた。正夫は大きく身震いし、それからホテルの方に向かった。
足の疲れと例の諦めに似た乾いた気分が、一層寒さを感じさせた。
歩いているのが辛くなり、前方にカフェが見えた時には安堵した。
正夫は普段カフェに入ることはない。年に一度入るか入らないかで、それも家内に誘われてのことである。いつもは自販機で缶コーヒーを買って済ませていた。その方が合理的だと思っていた。
しかし、この日は疲れた身体と心が休息の場を欲していた。
レジの後ろに掲げているメニューボードには、上から順に、カフェラテ、カフェカプチーノ、カフェモカ……とある。
よく分からない。
確かカフェオレがフランス語で、カフェラテがイタリア語だったっけ。では、カフェモカとは?
「ご注文はお決まりでしょうか?」
女店員がマニュアルどおりの口調で、マニュアルどおりの笑顔を浮かべている。
急かされているような気分になり、焦っているとカフェアメリカーナという文字を見つけた。たぶん、アメリカンコーヒーのことに違いない。
「カフェアメリカーナ」
「サイズは何にされますか?」
「サイズぅ?」
当惑しながら、もう一度メニューボードに目をやると、なるほど商品の横に飲み物のサイズが書いてある。
「じゃあ、ショートで」
正夫は一番量が少なそうなのを選んだ。
「ホットにしますか?アイスにしますか?」
この滅茶苦茶寒い日にアイスのわけないだろうがと、半ばあきれながら、脳天気そうな笑顔の店員に「ホットで」と答えた。
カウンターで、コーヒーの入った容器を乗せたトレーを受け取り、席に着こうとした。その時、空いているテーブルがないのに気がついた。
屋外にもテーブルと椅子が4セットほど置かれているが、この寒さの中では、さすがに誰も座っていない。
どこかのテーブルに相席させてくれるように頼もうか、飲み物を持ってホテルに帰ろうか、店の真ん中辺りでまごついていると、
「よろしかったら、ここ、どうぞ」と声がした。
振り返ると、そばの二人用のテーブル席に座っている若い女性が、テーブル越しの席を指差していた。
「あ、どうも」
正夫は軽く会釈し、彼女の前の席に腰を下ろした。彼女は軽く顔を上げ、にこっと笑みを返し、持っていたスマホに視線を落とした。
きれいな娘だ。
二十四、五歳ぐらいだろうか。
肩くらいまでの茶色の髪が肌の白さとアイボリーのとっくりのセーターによく似合い、清楚な雰囲気を醸し出している。
涼しげな切れ長の大きな目に長い睫毛の先がきれいにカールして上を向き、それが目をさらに大きく見せている。
鼻筋が通っていて、先がツッと上がっているのがなにか澄ました感じを与える。
どこかの一流企業の受け付け嬢でもしているのだろうか。
田舎にはこういう洗練された感じの女の子はなかなかいない。県庁の部下の顔を思い浮かべながら、正夫は目の前の女の顔を何気なく見ていた。
「?」
視線を感じたのか、彼女がつっと顔を上げた。
正夫は慌てて目を飲み物に落とした。プラスチックの蓋に四角い飲み口が開いている。
コップを持ち、そこに口をつけて、ごくりと飲む。
熱っ!
ちょっと吹き出し、思わずコップを落としそうになった。
慌ててハンカチを出す。
「ウフッ」
前の席の女の口元が綻んでいた。
今の様子を見ていたのに違いない。正夫はきまりが悪くなり、照れ笑いを浮かべた。
「大丈夫ですか?やけどしていないですか?ナプキンやお水なら向こうにありますよ?」
「いや、大丈夫。……ありがとう」
ハンカチで口の周りを拭い、テーブルにこぼれたコーヒーを拭いていると、彼女の飲み物の蓋がテーブルの上に置かれているのに気がついた。
「……蓋は取って飲むのが正解なんですね」
「たぶん、そうだと思います。……アイスならそこにストローを挿しますが……」
「なるほど。勉強になります」
正夫がそう言うと彼女はぷっと吹き出し、ケラケラと笑い始めた。
端正な顔立ちが笑いのために崩れ、可愛らしい表情をなる。
正夫も思わずつられて一緒に笑った。
先程から、ずっと続いていた萎えた気持ちはすっかりなくなっていた。
「こういう店はあまり来ないのですか?」
彼女は大きな瞳で正夫を見つめた。
「……うん、まあ」
そう答えると、彼女は目を細めて、また楽しそうに笑った。
その時、彼女の携帯に着信音が鳴った。
正面の窓の外に若い女性が立っているのが見えた。こちらの方を見ている。目の前の彼女は背後になるので、気づいていないようだ。
「あの子じゃないですか?」
窓の方を指さすと、彼女は振り返り、外にいる女の子と手を振り合った。
正夫が腰を上げようとすると、
「あ、いいです。私、もう出ますから」
彼女は下のかごに入れていたバッグとコートを取り、立ち上がって、去ろうとした。
が、ふと思い出したように足を止め、正夫の方を向いて、
「失礼します」
びょこんと頭を下げた。
その可愛いらしい仕草に正夫は思わずドキリとした。
自分の脇を抜けて、立ち去る女の後ろ姿を正夫は目で追う。
と、その時、彼女が脇に抱えていた淡いグレーのコートの中から一枚の紙がひらりと落ちてきた。声を掛けようとしたが、彼女は小走りで、店の外に待っている友人の方に駆け去ってしまった。
正夫は屈み込み、落とした紙を拾った。
それは名刺だった。
上に大きく「美女っ娘倶楽部」と印刷され、下には小さな活字で電話番号とインターネットのアドレスが書かれ、真ん中の空白にぺん書きの綺麗な字で「花連」とあった。
正夫は何か見てはいけないものを見たような気持ちになり、慌てて、ズボンのポケットの中にしまい込んだ。