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青葉、起きてるかしら?」
おばさんがドアをノックし、室内に呼びかける。間を置かずに、答えが返ってきた。
『うん、起きてるよ。なに?』
「入ってもいい?」
『いいよ』
おばさんは俺を振り返って微笑み、その場を去った。一人で行けということだろう。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと開ける。
「…青葉?」
「………那流?」
ベッドに座っている青葉と目が合った。青葉は一瞬固まった後、瞳に涙を浮かべた。ものすごい勢いで俺に駆け寄り、抱きついた。
「本当に!?ほんとに那流なの!?」
「おう、ひさしぶりだな」
「那流…やっと帰ってきたんだね…」
青葉は俺の肩に顔を埋めて、嬉しそうに呟いた。
「待ってた。ずーっと待ってた」
「待たせたな、青葉」
青葉は満面の笑みで俺に言った。
「おかえり、那流!」
2人で並んでベッドに腰掛ける。
「お前、全然変わってないな」
青葉は最後に会った時とまったく変わらない。ストレートのさらさらした茶色が少し混じった黒髪。垂れ気味の目。薄い唇。雪のように透ける白い肌。昔と何一つ変わっていない。身長差も変わらず、俺より頭一つ分小さい。
「那流も全然変わってないよ。一目で那流だってわかったもん。真っ黒な髪とか、切れ長の瞳とか、かっこいいとことか!6年ってもっと短いと思ってたけど、全然違った。とってもとっても長く感じた」
青葉は楽しそうに笑っている。さっきのおばさんの言葉が嘘のようだ。病気とは何なのだろう。そもそも治る病なのか。もし不治の病とかだったら、俺はどうすればいいのだろう。自然と顔から笑顔が消える。それに気付いた青葉が不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「那流?どうかした?」
「青葉、さっきおばさんに聞いたんだけど…」
緊張しているのか、いやに口の中が乾く。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「病気って、なんだ?」
青葉は悲しそうに目を伏せた。長い睫毛が影を作る。
「なんだ、母さん言っちゃったの」
「…青葉」
名前を呼ぶと青葉は顔を上げ、俺を真っ直ぐ見上げた。
「ナルコレプシーっていうんだって。知ってる?」
「ナルコ、レプシー…?」
告げられた病名を繰り返し呟く。
「睡眠障害だそうだよ。夜ちゃんと睡眠を取っているのに、昼間強い眠気が起きる発作なんだって。他にも症状はあるらしいんだけど…」
睡眠障害ということは、死ぬことはないのだろう。俺は安心して、ほっと息を吐いた。
「治るのか?」
「ん、もう…治らないんだって」
「そう、なのか…」
「だいじょぶだよ、那流」
青葉は優しそうに微笑む。胸が締め付けられる。青葉は昔からそうだった。こうやって優しそうに笑うときはいつも、なにか辛いことを我慢しているときだ。俺は青葉の白い手を握る。
「青葉、我慢すんな」
「な、那流…」
青葉の瞳から涙が溢れ出し、シーツを濡らす。ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、俺の服の裾をぎゅっと握る。
「ごめん、ごめんね、那流。昔から僕、那流に心配させてばっかだ」
「そんなん気にすんな」
「ほんとは、本当はね、すごく辛いんだ。いつ発作起きるかわからないし、怖い幻覚も見る。もう嫌だ…」
俺の背中に腕を回し、青葉は声を上げずに泣きじゃくる。俺は黙って青葉を抱きしめた。
気付くと青葉は寝ていた。これが発作というやつだろうか。青葉をそっとベッドに横たえ、俺は机の上にあった紙を見た。それにはナルコレプシーの症状や治療法について書いてあった。
『◎主な症状
*昼に突然急激な眠気に襲われる
*嬉しい、悲しいなどの感情が昂ぶった後、急に力が抜けてしまい、発作を起こす(カタプレキシー)
*寝る前や目覚めた直後に金縛りに遭う
*発作で眠ってしまった際、恐怖や不快感を伴う強い幻覚を見る
◎治療法
*規則的、かつ十分な夜間睡眠を確保することを原則として、昼食後など定期的に短時間(30分以内)の仮眠をとる
*薬物投与』
今青葉が眠ってしまったのは、このカタプレキシーというやつの所為だろう。俺との再会を喜び、泣いたから。
俺は眠る青葉の顔を見た。その寝顔は苦しそうに歪んでいる。時折小さな声で、俺の名前を呼ぶ。俺はハッとして、青葉の手を握った。青葉は多分、幻覚を見ている。俺の名前を呼ぶのは、その幻覚が恐怖を伴っているからだろう。
「青葉…」
俺は青葉が目を覚ますまで、ずっと手を握っていた。
「あら、もう帰るの?」
部屋から出て来た俺の姿を見て、おばさんは言った。
「はい、まだ荷物とか片付けてないので」
「そう、忙しいのにありがとうね」
「いえ、大丈夫です。近い内にまた来ます」
「もちろんよ、また来て頂戴ね」
「ありがとうございます。では、お邪魔しました」
軽く頭を下げて、俺は柳家を出た。門を閉めるとき、二階の窓から青葉が顔を出して、叫んだ。
「ばいばーい、那流!また来てね!」
俺は軽く手を挙げてそれに応え、その場を去った。
帰り道、俺は青葉の病気について考えた。死なない病気とはいえ、所構わず発作を起こすのであれば、それはとても危険だ。いくらこの村が田舎だとしても車は通るし、川もある。車に轢かれたり、川に落ちたりするかもしれない。迂闊に外出も出来ないだろう。
そういえば青葉は今年で高校生になるが、学校はどうするのだろう。中学校は青葉の家から近いところにあったが、高校はこの辺には無かったはずだ。一番近くて、神崎大学の隣にある神崎高校だ。でも青葉の家からは一時間以上掛かる。一時間かけて登下校するのは一人じゃさすがに危ないだろう。そこらへんのことは今度来たときに訊こう。
腕時計をチラリと見る。まだ時間は大丈夫だろうか。今日俺はもう一軒訪ねるつもりだ。もう夕暮れだが、今日訪ねると前以て言ってしまった以上、行かないわけにはいかない。幸い、青葉の家からならそんなに遠くない。俺は急いで歩いた。