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急いで来たつもりだったが、目的のマンションに着いたのは完全に日が落ちた後だった。3階まで一息に駆け上がり、305号室の前に来た。確かここで合っているはず。最後に来たのが6年前なので、あまり自信がない。インターホンを押す前に、表札を見る。
【緒方】
合っていたことに安堵し、安心してインターホンを押す。扉を開けて出てきたのは、高校生くらいの女の子。俺と同じ真っ黒な長い髪を背中まで伸ばしている。目はやや釣り気味で、それも俺によく似ている。
俺より3つ離れていて、昔は俺のことをお兄ちゃんと呼んで慕った。どこへ行く時も必ず嬉しそうに俺の後を着いてきていた。
「なる兄?」
「おう、ひさしぶりだな。紫苑」
「そうね。…ま、上がって」
しばらく会わないうちに、すっかり変わってしまった俺の従妹。しかし一瞬嬉しそうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。素直じゃないなぁ。昔はあんなに可愛かったのに、と思いながら靴を脱いだ。
「おかあさーん、なる兄来たよー」
紫苑が廊下の奥の扉に向かって叫ぶ。すぐに間延びした声が帰ってくる。
「那流くんいらっしゃーい!ごめんね今手が離せないのよー、どうぞ上がってー」
「お母さん、なる兄が来るからって張り切ってんの。今日はコロッケだって。なる兄、好きだよね?」
紫苑は苦笑いを浮かべながら俺を見上げた。紫苑は青葉と同い年だが、身長は青葉より大きい。単に青葉が小さいだけかもしれないけど。だが、俺より頭一つ分小さいのは二人とも変わらない。俺は紫苑の頭に手を置き、軽く撫でた。
「ん。美味しいんだよな、叔母さんのコロッケ」
「…うん」
奥のドアを開けると、台所で叔母さんが揚げ物をしていた。叔母さんは俺の姿を見るなり、饒舌に喋り出した。
「那流くんひさしぶりね~。しばらく見ないうちにすっかりかっこよくなっちゃって!若い頃の兄さんにそっくりね!あ、ねえご飯食べてくでしょ?那流くんの好きなコロッケ揚げたのよ。是非食べてって!それに今日はもう遅いし、泊まってったら?」
「いえ、今日は帰ります。まだ荷物片付けてないし、悪いです」
「あらそう?その方が紫苑も喜ぶと思うのに」
それまで黙っていた紫苑が顔を紅くして叫んだ。
「はあぁー!?ななな、何言ってんのお母さん!!」
「あら、隠さなくてもいいのよ紫苑。那流くんのこと大好きだったじゃない。今日もいつ来るかいつ来るかってずっと…」
「わあああああああ!!ちょ、いいから!いいから言わなくても!!」
まあどうせそんなことだろうとは思っていたけど、予想外の慌てっぷりだ。思春期の女の子とはこういうものなのだろうか。
「そんなことよりさ!そう、コロッケ!コロッケ早く食べよう!冷めちゃうじゃん!」
「それもそうね。さ、那流くん座って」
テーブルの上にはコロッケが山ほど積み上げられている。いくらなんでも作りすぎだと思う。
「いただきます」
「いただきまーす」
コロッケをもそもそと頬張りながら、
「叔父さんは?」
「お父さん?ああ、今日出張なの。東京行くんだって。なる兄は東京行ったことある?」
「ああ、まぁ、国際空港は東京にしかないしな」
「あ、そっか」
「桐也さんも一人暮らししてるのか」
「うん、お兄ちゃんも東京行ったよ」
「何に就いたんだっけ」
「銀行員だよ」
「ああ、桐也さん頭良いもんな」
などと、取り留めもない会話をしながら食事を進める。そういえば誰かと一緒に食事をするのはひさしぶりかもしれない。最近は飛行機や新幹線に乗ってばかりだった。
「なる兄、今日なにで来たの?」
「ん?あぁ、歩きだけど」
「…どこに住んでるの?」
「神崎大学の近く」
紫苑は動かしていた手を止め、箸を置いた。
「神崎大学って、ここから一時間以上行ったとこにあるとこ?」
「そうだけど」
「あそこから歩いてきたの?どうして?自転車はないの?」
「まだ金無くて自転車買ってなくてさ。しかもここバス通ってないし」
「迎えに行ったのに」
「いや、いい運動になったし、いいさ。それに青葉の家にも行ってきたし」
「青ちゃんの?…ふーん、そう…」
俺と青葉と紫苑、昔はよく三人で遊んだ。ここら辺には歳が近い子供なんて俺ら三人しかいなかったからだ。
紫苑はなぜかそれきり黙ってしまった。紫苑は青葉の病気のことは知っているのだろうか。そう思いながら俺は黙々とコロッケを食べた。そうしているうちにお腹もいっぱいになり、俺は食事を終えた。
しばらく休ませてもらい、俺は家に帰ることにした。時計を見ると、もう9時を回っていた。家に着くのは10時半ぐらいだろう。
「じゃあ、そろそろ帰ります。ご馳走様でした」
「本当に泊まっていかなくてもいいの?」
「はい、大丈夫です」
玄関で靴を履いていると、紫苑が慌てて部屋から出てきた。
「なる兄、もう帰るの?」
「ああ、また来る」
「ねえお母さん、途中まで送って行っていい?」
叔母さんは時計を一瞥し、微笑んだ。
「いいわよ、いってらっしゃい。でもあまり遅くならないようにね」
「うん、いってきます」
「お邪魔しました」
「ねえなる兄、あたしの自転車使ってもいいよ」
階段を降りながら、紫苑は言った。
「借りてもいいのか?」
「うん」
「返す時はどうしようか」
「あたしが歩いてなる兄の家まで行く。なる兄の家行きたいもん」
「遠いぞ?」
「いいよ」
紫苑の自転車はまだ買ったばかりの新しい物だった。紫苑の花の色の、薄い紫の自転車だ。
「どこまでついてくるんだ?」
「んー、もうちょっと」
自転車を手で押しながら、道を行く。街灯は少なく辺りは真っ暗で、気を付けていないとすぐ田んぼに落ちてしまいそうだ。
しばらく黙ったまま歩いていたが、突然紫苑がぽつりと呟いた。
「なる兄、彼女できた?」
「残念ながら。全然モテなかった」
「そうなんだ」
「日系人は欧米じゃ人気ないな。…紫苑は彼氏できたか?」
「んーん。何回か告白されたけど、断った。あたし好きな人いるもん」
これは意外だ。紫苑に好きな人がいたとは。
「ふーん。…誰?」
「教えなーい」
さっきの暗い声とは打って変わって、紫苑はいたずらっぽく笑った。
「見送り、もういいぞ」
思ったよりも紫苑は遠くまで着いてきた。さすがにこれ以上行くと、帰り道が危ない。
「そうね。あ、その前に、なる兄、携帯教えてよ。持ってるよね」
「あ、ああ」
赤外線通信で、番号を交換した。俺の名前が入った電話帳を見て紫苑は
「携帯の電話帳にお父さん以外の男の人入れたの、初めて」
「そうなのか?」
「うん。ありがと、なる兄。ばいばい」
「おう、気をつけて帰れよー」
紫苑は大きく手を振りながら来た道を走っていった。俺はその姿が暗闇に消えるのを見届け、自転車に跨り、漕ぎ出した。自転車なら、30分くらいで帰れそうだ。俺は暗い夜道を自転車で走り出した。




