エピローグ
物音ひとつしない冷え切った薄暗い食堂の中。いつもと同じ娯楽コーナーのソファ席。いつもと同じ1メートルの距離。二人はいつもどおりの小声で話した。しかし、博之と小原の会話はいつものようには弾まないでいる。
「長い間お世話になりました」
「こちらこそ・・・」
もう何も意識せずに話せる仲だったはずが、今は軽い一言さえ唇から先に出ない。それでも小原は博之のほうを見つめながら会話を続けようとしていた。
「ご迷惑も・・・」
「こっちこそ、きつく当たったりして・・・」
「いやなことは忘れる質なので・・・」
(ああ、もう言葉が続かない。今は何を言っても白々しい・・・)
博之はこのまま帰宅させるしかないのかと、日ごろから感じていた自分の優柔不断さ、いや、強引に立ち振る舞えない情けなさを感じていた。
小原は寒さを紛らわすように、両手のひらを太ももとソファの間に挟んで体に力を入れた。それを見て、
「じゃそろそろ、元気で。・・・またね」
・・・・・・博之が立ち上がろうとすると、
「最後に、・・・握手してください!」
小原はサッと両手を出した。
やはり小原の行動力、その仕草、その表情。この状況でさえ、男の気持ちを揺さぶる魅力があった。
博之はハッと躊躇ったものの、考える間もなくそれに応じた。そしてその手を握りながら、
(やっぱり、俺と同じ気持ちだ。きっと)
そして博之、ついに思い切った一言を。
「抱きしめてもいいですか?」
「はい!」
間髪入れずそう答えた小原に、博之は両手を伸ばし、即座に彼女を引き寄せた。そして自分の胸に顔をうずめてくるこの美しい女性を、劣情に押し流されないよう気を引き締めながら、できる限りやさしく、包み込むように抱きしめ、その小さな頭から肩を撫で下ろした・・・。
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博之の帰宅途中、愛音から電話がかかってきた。小原と楽しい会話をした後に、愛音から電話があるのはもう珍しくなかった。小原との会話の余韻を楽しむのを邪魔されるのにも慣れた。
「もしもし、どーした?」
[今日ね。拓君が家の鍵、返しにきてくれたの]
「あ、そう。よかったじゃないか」
[車のお金も、毎月ちゃんと払ってくれるって]
「へえ? どうして心入れ替えたのかな?」
[私、赤ちゃんのこと、拓君に言っちゃった。それからパパとの本当の関係も]
「ちゃんと話し合えたみたいだな」
[いろいろあったのよ。そのうち、拓君とやり直せる予感がするわ]
「・・・・・・」
[どうしたの? 元気ないね]
「小原が最終日だったんだ」
[それで悲しんでるのか]
「ま、そういうこと」
[うまくいってたんじゃないの?]
「そうだよ」
[でもあの人、パパの愛人じゃないでしょ]
「どうして違うと思う?」
[小原さん、私に遠慮してたもん、こっちが愛人だって疑われてたみたいだったし]
「そんなことないだろ?」
[それにパパたちも、お互いに遠慮し合ってるように見えたよ。仲いいのに]
「・・・そうか。そういう関係だったんだな」
[暫く寂しくなっちゃうでしょ]
「いいや、まだまだやらないといけないことが多すぎて」
[少しは平穏な日々が続くといいね]
「そうだな。愛音、また俺にピアノ教えてくれないか・・・」
完
あとがき
やっぱり、100%の幸せなんか掴めないものなんだな。
100%頑張っても、周囲に翻弄されるから。
だから、せめて幸せの1/2(半分)でも感じられれば、それで良しとしよう。
あとはどれだけの数、それを感じていけるかなんだ。
隠子は婚約を破棄したが、実父の家族に受け入れられた。
退職した部下は家を継ぐために、我慢の夫と暮らす。
娘は受験に合格したものの、友達とは別の道を進まなければならない。
私の仕事は軌道に乗った。しかし、頼れる彼女はもういない。
隠子の婚約+美人の退職+愛娘の受験+仕事の責任=幸せの1/2
どれだけ足しても、答えは必ず、『幸せの1/2』になるんだ。
・・・それと、言いわけだけど、
最後に小原を抱きしめたのは、彼女のプライドを傷つけないため。
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君が握手を求めたのは、きっと名残惜しさから、何か残したかったんだと思うけど、それに応じただけじゃ、君が後で冷静になった時、何言っちゃったんだって、自己嫌悪に陥るかもしれないだろ。
俺は、そうさせちゃダメだろうって、そんなこと考えてしまったんだ。だから俺は更に踏み込んで、あんなことが言えたんだよ。
君から求める必要なんかないんだ。男から奪っていける人だから。
もう部下じゃない君に対してなんだから、セクハラって言うなよ。
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因みに本作の扉絵が、送別会で贈ったバラの花束。小原の好みを真剣に考えましたww。




