第15章 責任感
翌日、博之は事務所にいた。休日出勤である。
昨晩は、愛音の電話が長くなり、小原が気を利かせてバーを出ることになってしまった。多少名残惜しかったが、小原をタクシーに一人で乗せると、その時、彼女が真面目な顔をしてこう言った。
「本当に愛音さんは、木田さんの愛人じゃないんですよね」
「何言ってるんだよ。違うに決まってるじゃないか」
「それが嘘だったら、私今、物凄くカッコ悪いんですよ」
「えぇ? どういう意味?」
「愛音さんの電話で、帰らされるんですから」
うっすらと笑みを浮かべてそう言うと、タクシーのドアは閉まり、走り出してしまった。
その時博之は直感で、(今のはヤキモチじゃない。こっちの名残惜しさを揺さぶってくるなんて、さすがにかけ引きがうまい娘だな)と思った。
土曜日の事務所で、博之はパソコンを立ち上げ、年末の企業監査の資料作りの仕上げをしようとしたが、丸川が出勤してこないことが気になっていた。
「今日は新映像チームも、出勤予定だったはずなのにな」
壁のホワイトボードには、1ヶ月のスケジュールが書かれているが、12月9日土曜日の欄には、丸川以下3名の名前が書かれていた。
「やっぱり、来週の業務の下準備の日だな。昨日遅くまで飲んで、遅刻してるのか。気合の抜けたリーダーだな」
博之は渋い顔をして、自分の仕事をしようと、パソコンにパスワードを入力した。
(この資料の半分は、小原が作ってくれたんだ。もうほとんど完成してるけど、あいつの日本語、たまにひどいからな。しっかり読み返しておかないと。でも、よく手伝ってくれたな。普通こんな地味な作業嫌がるのに、俺と一緒の作業、嫌じゃなかったのかな?)
最近の博之は、小原のことばかり考えている。愛音の婚約解消より、秋日子の中学受験より、知子のことより。それは当初、仕事として気になっていたはずが、今では、彼女自身のことが気になるようになっていた。
(部下にこんな感情を持つのはよくない。変な行動だけは取らないように気をつけたい)
その後、博之は集中して資料の手直しを進めていた。休日ということもあり、誰もいない事務所で、電話も皆無だった。つまり、仕事がはかどっていた。
「あっあーーー」
大きく伸びをして、マグカップのコーヒーを飲んだ。
「何か甘いものを持ってくればよかったな」
コーヒーはいつもブラックで飲むので、長時間集中して仕事をする時は、クッキーやチョコレートを摘まみながらというのが常だった。博之は食堂の自販機に、スナック菓子があるのを思い出した。
席を立ち、引き出しの中に入れてあった100円玉を2枚持って、食堂に向かった。食堂のドアは鍵がかかっている。しかし、厨房と廊下を隔てる防火扉に付いている脱出口には、鍵がないことを博之は知っていた。そこから一旦厨房に入り、食事を提供する窓口のカウンターを、ひょいっと乗り越えて、普段食事をするフロアにたどり着いた。
自販機には、スナック菓子の他に菓子パンも入っていた。すべて150円の値札が付いている。お金を入れて、好みの商品の番号をテンキー入力すると、その品が出てくる仕組みだ。博之はドーナツを見つけて、お金を入れた。
それを手にして、また厨房に戻ろうとした時、すぐ横の娯楽コーナーにあるテーブルが目に入った。
(この席は、いつも小原がミーティングと称して、俺と愚痴を言い合う場所だ。もうあいつとも、20日くらいでお別れだよな。なんか、卒業式間際の気分だな。よく考えたら、あいつは勤続7年だから、小学校より長い付き合いだったんだよな。なのに、ここ2~3ヶ月で、急に気になる存在になるなんて、ドーナツってんだ? ・・・くだらね)
事務所に戻ると誰もいないので、丸川係長のことを思い出した。
「あれ? もう11時を回ってるのに、まだ来てないな」
博之は、業務用携帯を取り出して、丸川の番号にかけてみることにした。さすがに休日とは言え、これだけの遅刻は容認できない。しかし、博之はハッと驚いた。
PPPPPPPPP・・・PPPPPPPPP・・・
その電話の呼び出し音は、丸川のデスクの中で鳴っていた。
「あいつ、業務携帯持って帰ってないのか。休日でも、業務連絡がないとは限らないのにな。まあ、今まで丸ちゃんには、休日にかけたことなかったから、俺も気づかなかったけど」
仕方なく、個人携帯にもかけてみたが、相手は出ない。
「何してんだよ。まさかまだ寝てるのか?」
博之は、同じく出勤予定だった丸川の部下の藤尾にもかけてみた。
P・P・P・P・RRRRRRRR・・・RRRRR
「はーい?」
「もしもし、木田だけど、君、今日は出勤予定じゃなかった?」
「え?部長? 違いますよ。係長来てるんですか?」
「事務所のボードは出勤予定になってるけど、誰も来てないぞ」
「昨日、係長がやめとこうって言ってましたよ」
「え? やめとこうってどういうことだよ」
「飲み会の次の日だから、出る気なくなったからって」
「そんなこと言ってたのか? それ、おかしいと思わないの?」
「さあ? 僕は予定大丈夫なんだろうなって、思ってましたけど」
「遅れてる、遅れてるよ。今日休んだら、月曜日の仕事どうするんだ」
「僕は分からないですよ。係長が休みにしたんですから」
博之は、頭に血が上りそうになったが、何とか怒鳴るのを我慢した。
結局、その後も丸川には連絡がつかず、その他の2名では、作業が段取りできずに休ませるしかなかった。そして、大きな溜息をつき、椅子にもたれてドーナツをかじった。
翌週の月曜の朝、博之は当然、丸川係長に厳しい指導をしなければならなかった。丸川は朝礼の後、逃げるように黙って事務所を出ようとしたので、少し大きな声で、
「係長! ちょっと待ってくれ」
そして、一緒に事務所を出て、商談室に呼び出した。
「丸ちゃん、土曜はどうして出勤しなかったんだ。スケジュール押してるのに、納期通り仕上げる気はあるのか?」
「大丈夫ですよ。自信ありますよ」
( ぁ。 )
博之は、この軽い返事に絶望した。なぜならそれは、拓君に愛音との結婚生活について訊ねた時の返答と、全く同じだったからだ。
「一体どこからそんな自信が湧いてくるんだ?」
「できる限りのことはやってきましたし、残業だって毎日してます。それでできなかったら、もともと無茶な業務なんじゃないですか?」
『できる限りのこと』とか『やるだけやった』というのは全部言いわけだ。本当にがんばってるヤツというのは、『やってもやっても追いつかない』と言うもんだと、博之は知っていた。
「お前、仕事を何だと思ってるんだ? お前がルーズなのはよく分かったけど、部下にまでそんな指導をしてるのか?」
「ちゃんと指導してますよ」
「その“ちゃんと”はどんなことなんだ!? たとえ土曜でも、無断欠勤だぞ。しかも部下二人を巻き添えにして」
「土曜に休む権利はないんですか?」
「権利はあるけど、業務命令で出勤になってるんなら、それに従うべきだろ。お前に出勤日を決める権限はない」
「分かりました」
そう言うと丸川係長は、席を立ち部屋を出ていった。博之は頭をかいた。この件は社長に報告するしかなかった。
社長室で、デスクに腰掛ける社長に、博之は立ったままで話をした。
「・・・そうしてくれれば、なんとか休日出勤命令も、取り下げてしまおうと思ってたんですが、あんな態度では、社長にも報告するしかないと思いまして」
「そうか。よくやってくれてたんじゃなかったのか?」
「そういう報告もしてきましたけど、私が管理してケツを叩かないと、予定なんかほとんど見てないようですから」
「でも、そんなんじゃ、仕事は任せられんな。人手不足だけが原因じゃなさそうだな」
「その通りです。でも代わりが今はいないですから」
「辞めると言ったわけじゃないんだろう? 続けさせるしかないじゃないか? わしから強く言ってやろうか? 責任者の自覚を持てって」
「それは何度も言いましたけど、社長からもお願いできますか?」




