罪人バルナバス《1》
母上の企みが失敗した。信じがたいことだったが、それでも当初はなんとかなると考えていた。
幾ら近頃のムスタファの評判が良かろうと、長年の努力で培った私のそれを超えてはいないはず。父とて存在すら認めたくない長男より、目を掛けている次男の私を信じるはずだ。多少難儀するかもしれないが、すぐに事態は好転するだろう。
私はそう考えていたのだ。しかしすぐに、現実を突きつけられた。
私が国王と第一王子の暗殺未遂犯であることは覆らない事実となっていること。父に私を助ける意思はないこと。
それらを尋問官から聞かせられ、私は狼狽した。こんな結末なぞ予想外にもほどがある。
何故だ、どこで間違えたと考えても後の祭り。早々に母上は永久凍結、カールハインツは斬首と、それぞれの刑が決まったという。ならば私も反逆者として裁かれ、処されるのだろう。――誰しもに愛され評価され敬われていた、この私が。
こんなことが現実のはずがない。
私はきっと悪夢の中にいるのだ。
◇◇
予告無しに扉が開き、ふたりの近衛兵を従えたムスタファが入って来た。堂々とした態度で向かいの椅子にすわる。
向かいと言っても距離があり、彼我の間に遮るものがなにもなくとも容易には近づけない。私がもしムスタファの首を締めてやろうと思っても、たどり着く前に近衛兵に制圧されるだろう。奴らは私に鋭い視線を向けている。それは王族へ向けるものではなく、犯罪者に向ける眼差しだ。私より劣っていたはずのムスタファが、そんな近衛兵に守られている。優秀な王子の私から!
屈辱に身が震える。
「食事をろくに取っていないと聞いたが」
ムスタファが言う。
ムスタファ風情が私をバカにするのか。そう言ってやりたいが、口が動かない。
「黄金に満ち花々で彩られた道を歩んできたバルナバスには、初めての挫折か」
侮言に奥歯を噛みしめる。なぜこの私がムスタファに貶められなければならない。魔法を使えることができたなら。その頭を吹き飛ばしてやるのに。
だが今の私には不可能なこと。この部屋では魔法は無力化される。千を超えるほど試したが、一度も成功しなかった。
ムスタファが憎々しい。栄光は私の上に輝くのであって、彼ではない。だというのに立場が――
急激に胃からなにかがこみ上げる。まずいと思ったときには胃液が口から飛び出し、床に飛び散った。汚らしい吐瀉の音を自分が立てているなんて思いたくない。これは夢だ。悪夢なのだ。
「……トイファー、外の近衛に清拭の用意をするよう伝えろ」
ムスタファの声が聞こえる。それから衣擦れの音。
「お前、これをバルナバスに」
ひとりの近衛兵が近づいてきて、布切れを差し出した。クラバット。ムスタファが自らのものを外したのだろう。
「今はそれしかない」とムスタファ。「この部屋のどこに何があるかもわからないからな」
これで胃液に汚れた手と口を拭けということか。だがムスタファのものなぞ受け取りたくない。
「……物心がついたころ」ムスタファが言う。「バルナバスがうらやましかった。母親がいて惜しみなく愛される。私の父だという人は私には一瞥もくれないのに、お前のことは大切にする。使用人たちにとっても私は価値がなく、彼らはバルナバス王子に仕えるのは誉れ、私ならば貧乏くじを引かされたと思う。世話も教育も義務だからするだけで、そこにはなんの愛情も期待もない。同じ兄弟のはずなのにどうしてこれほどの差があるのだ、といつも考えていた」
ムスタファを見た。淡々とした声と同様に、顔には感情はない。怒りも蔑みも。
「よくも殺そうとしてくれたなという怒りはある。罪人に堕ちたか、ざまあみろとも思うし、マリエットを巻き込んだことは絶対に許さない。だが――」
言葉を切ったムスタファはじっと私の目を見る。
「――哀れだな、お前」
怒りが一瞬にして沸騰する。近衛兵からクラバットをむしり取り、ムスタファに向けて投げる。シルクのそれは奴に届くことなく、ひらひらと舞いながら床に落ちた。
「これほどまでに精神がもろいとは思わなかった」とムスタファ。
なにを言う。私は強い。もろくなんてない。今はただ、体調が優れないだけなのだ。
「――その眼差しができるなら、まだ、大丈夫か」
バカにするな! ムスタファ風情が!
「聞いているか。パウリーネは氷結魔法を何重にもかけた上で地下に安置、シュヴァルツは斬首刑だ」
喉を胃液がせり上がる。何度も何度も吐いたせいで、喉は荒れ激しく痛む。私は、こんな目にあっていい王子ではないのに。
吐瀉が終わると、恐る恐るムスタファを見た。母上もカールハインツも極刑だ。ならば私は。私はどうなる。
本来なら不死と永遠の美貌を手に入れて、玉座に座るはずだった、私は。
「国王暗殺未遂。通常ならば死刑を科すところだが
バルナバス、お前には減刑の機会がある」
……減刑?
「地下で見ただろう? 不穏な珠」
言葉を聞いて、すぐに思い出す。死闘を繰り広げたあの部屋に置かれていた、巨大な珠。中には魔族の角が閉じ込められ、薄気味悪い靄が渦巻いていた。母上も嫌な感じがするから触れてはならない、と言っていた。
「あの珠を浄化して無害なものにする。上級魔術師団長の見立てだと、我が国の総力をあげれば可能らしい。総力とはつまり師団全員、私、父上、それからバルナバス、お前だ」
「……私?」
意外な話に驚いたせいか、久しぶりに声が出た。
「そう。協力するなら、刑は魔力封じと離宮での蟄居だ。城内でならば多少の自由がある」
「……断ったなら……」また声が出た。ひどくカサカサではあるが。だがその続き『処刑なのだな』との確認の言葉は出なかった。
「断った場合は処刑か投獄か、好きなほうを選ばせてやる」
またも胃液が逆流する。苦しい。せめても椅子からずり落ちないでいたいと、座面を掴んで必死に耐える。
「覚悟も無しに、なぜ私や王を殺すことに加担したんだ。愚かにもほどがある」
目を向けるとムスタファはちょうど立ち上がるところだった。
「……父上はなんと言っている。私を信じているだろう? なぜ私を助けない。お前が止めているのか」
聞き取りにくい醜い声。
「……あの男はパウリーネの魔法が解けて、錯乱している。元に戻るにはまだ時間がかかるだろう」
ムスタファはそう言い踵を返すと、ふたりの近衛兵を従えて部屋を出て行った。入れ違いに別の近衛兵が三人入ってくる。ひとりの手には湯気のたった洗面器とタオル。
捕らえられてから、私の身の回りの世話は近衛兵がしている。侍従や侍女では私が人質にとる可能性があるかららしい。室内には常に彼らがふたり監視に立ってもいる。私は罪人として扱われているのだ……。
◇◇