第三話 曇天開けて Ⅱ
その少し前。ただ食事をとろうとして出てきたはずが、一度に衝撃的なことが立て続けに起こる、というよくわからない状況に置かれた私は、状況を整理するために時間を必要としていた。
幸いにも、若女将―後で名前を聞いたところによると、菜緒さんと言うらしい―が、頃合いを見計らって、「ああいう人って困りますよね」なんて感じで話しかけてくれたおかげで、冷静さだけはすぐに取り戻すことができた。二言三言かわしてから、食事の手配をお願いすると、彼女は快く応じてくれた。名前を聞いたのはこの時だ。
食堂に通されて、食事が到着するまでの間で、私は不知火というらしきあの男に対してどう対応すればいいのかを考えていた。
勿論、無視をするのは簡単だ。私の買い物自体は無理をすれば明日中にでも終わる。それからすぐ街を発てば、彼と会話を交わすこともなく去ることができるだろう。しかし彼が胡散臭い態度の裏で瞬間見せたあの真面目な顔や、彼が言い当てた事実の一側面は、ただペテンと断じるにはあまりにも的確すぎる。
やはりあの男とは、もう一度会って話をすべきだ、と意識を固める。それから、知らず身体に力が入ってしまっていたことに気づき、ふっと息を吐くと、丁度そこで料理が運ばれてきて、とりあえず今は休むことに傾倒しようと、重い考え事を頭から取っ払ったのだった、
しかし、それから程なく、休憩という名の空白の時間に求めていたものとは全く真逆に、騒乱の火蓋が落とされることになってしまった。
閃光、灼け付くような紅、吹き飛ぶ木片、襲い来る衝撃、そして、その破壊の跡から立ち上る炎と煙の隙間から、人影が現れた。
「…聞いている通り、本当にただのボロ宿だな…『鏡界の巫女』が居るという話も果たして本当かどうか…」
現れたのは、黒ずくめの男性。その静かな雰囲気に、一瞬状況を見失いかける。
(…『鏡界』の…巫女?)
巫女、という言葉は知らないが、鏡界という言葉には聞き覚えがあった。それは、天照のいた場所の名前だ。…ということは、この男は天照のことを知っているのだろうか。
…しかし。私は違和感を覚えた。天照に関わるような人物だというなら、今感じているこの悪い予感は、そして彼が引き起こしたらしい蛮行は一体?
彼の黒のロングコートを爆風にはためく。その姿の黒とは真逆に白い腕が、被っていた大きなシルクハットを押し上げ、その隙間から紅い瞳が周囲を睥睨している。
瞬間、えもいわれぬ威圧感を感じた。
「な、なんだ、どうした!何があった!」
遅れて、ドアが勢いよく開かれる音とともに、宿泊客の男が二階の階段からフロアを見下ろす。それはすぐに連鎖し、顔を合わせたこともない客が次々と姿を現す。
「…ふむ、派手にやりすぎたか。まぁいい。―全員、動くな」
男の突き刺すような冷たい言葉は、客たちには届いていないようだった。当然だ。何しろ、見れば相手は少年と言って通じるほどの小柄な男一人。まして今この状況を初めて目にした彼らは、まだ状況をつかむことができていないだろうから。
しかし。ついさっき目にした紅い光、宿の入り口が破壊されたこと、頭を押さえて倒れこむ菜緒さんの姿、そして、―彼の、禍々しくすら見えるあの紅い目。その全てが、不意に繋がっり、瞬間に背筋が冷える。
とっさに私は叫ぼうとし―
「―危な―」
―しかし、何事かを発しようとしたときには時すでに遅く、男が掲げた腕の五指から紅い光芒が迸る。空気を裂く音が私の声を掻き消し、閃光が、壁を、床を、天井を破壊する。土埃が上がり、木片が降り注ぐ。一気に悪くなった視界に、それでもそれは飛び込んできた。
彼の放った閃光が、反応の遅れたある女性客の足を捉えたのが。
甲高い悲鳴が響いた。
それは、多くは驚愕によってもたらされたものだったのだろう。壁に叩きつけられたことで止まった彼女の悲鳴は、暫くして苦痛の呻きとなって再来した。きっと漸く痛みが追いついたのだろう。微かに肉の焦げるような匂いもする。もう彼女の体はここからでは見えなかったが、生命そのものを絞り出すかのように悲痛な声と、動転して狂乱の渦に陥った客たちの声が混乱を物語っていた。
そして今。再び私の横で、男がその五指を掲げる。
「…喧しいことだ」
感情のない声で。面倒くさそうな声で。
「―ッ!」
ただそう呟くだけで人を傷つけてしまえる彼があまりにも恐ろしくて。
冷たい恐怖にとらわれたまま動くこともできない私のすぐそばで、赤黒い光はさっきよりも凶悪にその光を増していく。目の前の風景が歪んで、空気が震えているような気さえする。
絶望的なほどの力。恐怖と破壊を生む力。
―これが、『魔法』。
人知を超えた力。『科学』の持つ集団的な力ではない。個人の持つ能力としてのそれが牙を剥く。その様が、私が物理的な意味とは別に、遠い所へ来てしまったということを真に伝えてきている気がした。
果たして。
放たれた二度目の閃光。今度は人々もただ呆然としていたわけではない。ここにきて漸く、男から身を守ろうとして、上の階に逃げようとする。しかし、混乱した状況でそれは見事に逆効果だった。誰かが転んだのをきっかけとして彼らは将棋倒しに倒れていく。
その重なった背中のすぐ上を、閃光が通り過ぎていった。
誰にも直撃せず済んだその光。しかし、その幾筋にも分かれたうちの一つが、階段の手すりを、もう一つが行く先の階段を破壊していた。
「あっ―」
それは、階段全域が魔法の射程内になるということ。そして、倒れこんだ彼らの背中はまさに、格好の的だった。
「逃げてっ!」
叫ぶものの、それはむしろ逆効果だった。恐怖に駆られた彼らがまともな判断を下せるはずがない。もつれ合い、争いながら走り出そうとするその背中は、ここからでも見通すことが出来たし、安全圏は絶望的なほど遠い。
―なんとか、しなくては。
そう思うものの、体は動かない。いや、何をすればいいのかすらろくに思い浮かばない。
呆然と突っ立っている格好となってしまった私の目は、自然、ほんの少しだけの間を空けたその先の、この恐怖の元凶へと向かった。
自分の起こしたことについて何も感じていない、と言う様子のつまらそうな顔。掲げられた右手。そして、その先を只見つめる瞳。こちらに向くことのない視線は、決して見逃したという意味ではなく、私程度ならどうとでもできるという余裕の表れであるように見えて。まるでその冷酷な目が言外にこう告げているようで。
―お前程度、いつでも殺せる。
(― ぁ)
気づいて、しまえば。膝が笑い出す。身体が恐怖で震えだす。残っていた力が全て抜けていく。
なんとか、する、という言葉。その甘さを、私は今身をもって体感していた。
私には、最初から選択肢はないのだ。ただ茫然と、眼前の圧倒的な力に慄き、動くことさえできないまま眼前で行われている凶行を眺めることしかできない。
そう、天照と分かたれたあの時のように。
絶望とも違う不思議な虚脱感の中、私は不意に理解してしまった。
私は、自分の境遇を、ひいては自分自身を変えるためにこの世界へとやって来た。だというのに、私一人では、天照がいなくては、あまりにも無力。現に、こうして今も何一つ動くことができない。
―ならば、そんな私がここに来た意味は、どこにある?
(―結局、私は何も変われない)
そんな私を嘲うかのように、硬質の音が連続して響く。
それは、動く者の音。力ある者の、抗う者の象徴。恐怖に臆することなく立ち向かう、その証。
―果たして。
空間を青白い閃光が埋め尽くす。それはまさに放たれんとしていた黒い閃光と激突し、相殺し、そして衝撃を辺りに撒き散らす。それをもろともせず階段から飛び降りた影が、鋭く叫ぶ。
「―鳴命雷!」
宿の破壊された入り口付近から、何かに引かれるようにして転がり出る刀。それを疾駆する低い体勢で受け取った不知火は、そのまま鞘を腰だめに構える。
「―ッ」
ここにきて男が初めて動揺を見せた。慌てた様子で取り出された左手には一振りの短刀。それを逆手で構えた男に、不知火は迷わず突っ込み、
―抜刀。
その刃の閃きとともに、目を灼くほどの光が再び世界を塗り替える。その勢いを短刀一本で受け止めた男が大きく吹き飛んだ。
そして私は…ただ、その輝きに見惚れていた。
やはり圧倒的なまでの力。けれど、その白い光は、臆さない不知火は、刀を振りぬいた彼の瞳は、どこまでもまっすぐに先を、自分のできることだけを見つめていた。
これも、また、魔法なのだ。
覆いかぶさるようにして襲って来ていた恐怖を、黒い閃光を塗り替えた、美しく、圧倒的な白。周囲を鼓舞するかのように、ただ突き進むまっすぐな光。
眩しい、と思った。そのまっすぐさは、ただ立ち尽くして祈るしかなかった私には、残酷なほど眩しい。
だというのに、目を背けることができない。最早刀から光は発せられていないというのに、空気中を走る電光を目で追ってしまっていた。
「―菜緒さんを頼む!」
呼ばれて、そこで漸く我に返る。見れば、不知火が階段の方へ駆け戻っていくところだった。いつの間にか客たちは裏口らしき場所から我先にと逃げ出していくところだった。倒れていた菜緒さんが、起き上がってふらふらとしながらこちらに歩いて来る、その表情に我に返り、肩を貸す。
「…氷雨…さん、裏口から…その先に、安全な場所があります、あそこ、まで…!」
菜緒さんの必死の言葉に、自分を奮い立たせる。
気づけば、私を縛っていた虚脱感はすっかり姿を消していた。歩きながら後ろを伺うと、よろめきながらも男が立ち上がるところだった。
「く…そ、逃がすか…土人形ども!」
男がコートの裾を払うと、中から何かが空中に浮かぶ。
(…ッ、なに、あれ…?)
それは、周囲が歪んで見えるほどの、暗黒色の球体。彼が放ったあの黒い閃光と同じく、禍々しい感じがした。
そして、それに引き寄せられるようにして、瓦礫と砂煙が巻き上がっていく。
おそらく、あれもまた魔法なのだろう。何をするのかはわからないが、今の私には何もできないし、此処に残っても不知火の邪魔になるだけ。そして、何よりも、その非現実的な光景に、再び心が鷲掴まれそうで。その恐怖から逃げるように、私は歩調を速めて裏口に飛び込んだ。
少し早く投稿できました。今回、この作品初の戦闘描写が登場しました。如何だったでしょうか?
これから難しくなっていくところですが、頑張って早く続きを提供できるように頑張ろうと思います。
ご意見、ご感想などいただけると幸いです。