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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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第1話 断罪舞踏会と退職届

秋の終わり、王宮大広間の銀鐘が九つ鳴るころ。


天井の新型シャンデリアは、百八枚の硝子羽をゆっくり開き、淡い金色の光を床へ落としていた。


その真下で、私は婚約者に捨てられた。


「リディア・エルンスト侯爵令嬢」


レオンハルト殿下の声は、楽師の弓よりもよく通った。


大広間の空気が、ぴんと張る。


踊っていた貴族たちが足を止めた。扇が閉じられ、囁きが喉の奥へ沈む。


私は殿下の正面で、両手を重ねた。


震えそうになる指先を、手袋の中で押さえる。


「はい、レオンハルト殿下」


「私は今宵、この場をもって君との婚約を破棄する」


銀の燭台が、一本だけ小さく鳴った。


誰かが息を呑んだのだと思う。


殿下の隣には、ルシェル侯爵令嬢が立っていた。薄桃色のドレス、白い肩、潤んだ瞳。社交界で「慈善の花」と呼ばれる令嬢にふさわしい姿だった。


「君は王太子妃候補としての務めを怠り、王宮魔導具改革の進行を妨げた。さらに、ルシェル嬢の慈善活動を妬み、彼女を中傷した」


中傷。


その言葉が、耳の奥で冷たく転がった。


私はルシェル嬢と、まともに話したことすら数えるほどしかない。彼女の慈善活動に回された暖房魔導具の試験記録について、確認を求めたことはある。


未検証品を貧民街に配るのは危険です、と。


それが中傷になるらしい。


「リディア様」


ルシェル嬢が胸元で手を握った。


「どうか、もう意地を張らないでくださいませ。レオンハルト殿下は、この国の未来のためにお忙しいのです。あなたの手助けが足りなかったからといって、誰も責めたりは……」


「責めているのは殿下です」


私の声は、思ったより静かに出た。


ルシェル嬢の睫毛が揺れる。


会場の端で、誰かが扇の陰からこちらを覗いた。


殿下の眉が寄る。


「その態度だ。君は昔から、自分の非を認めない」


「認めるべき非があれば認めます」


私はドレスの内側に縫い込んだ薄い革鞘から、二通の書類を取り出した。


白い紙の上には、あらかじめ私の署名と人格印を押してある。


昨夜、王宮魔導具局の作業室で、震える手を温めながら仕上げたものだ。


一通目を、殿下へ差し出す。


「婚約破棄受諾書です。王族側からの破棄となりますので、婚約破棄規定に基づく査定は、後日、担当官を通してください」


会場がざわめいた。


殿下の目が、ほんの少しだけ大きくなる。


きっと、泣くと思っていたのだろう。


床に崩れ、許しを乞い、ルシェル嬢の足元で惨めに縋ると思っていたのかもしれない。


十年も婚約者だったのだから、そのくらいの読み違いは、そろそろ卒業してほしかった。


「……用意がいいな」


「王宮では、書類の不備が一番嫌われますので」


二通目を、私は王宮魔導具局長バスティアン様へ向けた。


局長は黒い礼服の襟をつまみ、不快そうに顎を上げる。


「こちらは退職届です。本日付で、王宮魔導具局の臨時付与師補佐を辞します」


「何を勝手な」


バスティアン様の声が低くなる。


「君は王宮魔導具改革の中核に関わっている。途中で投げ出すなど許されん」


「正式な任用契約は三日前に満了しています。延長契約書に、私の契約印はありません」


私は、胸の奥がきしむのを感じた。


三日前。


延長書類の束が机に置かれた夜、私は初めて署名しなかった。


手が震えて、ペンが持てなかったからではない。


もう、持たないと決めたからだ。


「なお、本日をもって、私の人格印による無償保守は終了いたします。過去に私が調整した王宮魔導具の修理、点検、緊急対応は、今後すべて付与師ギルドを通してください」


「無償保守?」


レオンハルト殿下が笑った。


「王宮の魔導具は王家の所有物だ。君は私の婚約者として、それを支える立場だった」


「婚約者であることと、職務契約は別です」


口にした瞬間、指先の震えが止まった。


不思議だった。


怒鳴っているわけでもない。泣き叫んでいるわけでもない。


ただ、線を引いただけ。


それだけで、息が吸いやすくなった。


「屁理屈を」


バスティアン様が、天井を指した。


「ならば、あれを見ろ。今宵のために局が完成させた新型シャンデリアだ。王都中の貴族が見ているこの場で、光を落とすわけにはいかん。君が最後まで面倒を見ていた装置だろう」


天井の硝子羽が、きらりと輝いた。


確かに、最後の保守をしたのは私だ。


けれど、完成させたのは局ではない。


過熱しやすい光核に冷却配列を足し、魔力の揺れを逃がす安全溝を刻み、負荷が三段階を超えたら自動停止するようにした。


徹夜で。


何度も手を火傷しそうになりながら。


その記録は、局の成果発表からは消えていた。


「殿下、起動を」


バスティアン様が言った。


レオンハルト殿下は少し迷ったように見えた。


だが、会場の視線が集まっている。未来の王として、引けないのだろう。


殿下は袖口の起動石に触れた。


天井で、シャンデリアが大きく花開く。


硝子羽が一斉に広がり、金の光が降り注いだ。


誰かが「美しい」と呟く。


次の瞬間、光核の奥で青白い火花が走った。


ぱちり。


小さな音。


私の背中に、冷たい汗が流れる。


やっぱり、予備冷却石を外している。


あれほど外さないでくださいと書いた。赤字で。三重線で。余白に「本当に外さない」とまで書いた。


「リディア」


殿下がこちらを見る。


「すぐに直せ」


命令の声だった。


婚約を破棄した直後でも、私の手だけはまだ自分のものだと思っている声。


私は天井を見上げた。


光核の震えは、第二段階を超えた。第三段階に触れる前に、安全付与が走る。


三、二、一。


ふっ、と大広間が薄暗くなった。


悲鳴は上がらなかった。


硝子羽は一枚も落ちず、火花も散らず、ただ静かに光を閉じた。


天井に残ったのは、淡い月明かりだけ。


事故にはならない。


そう作ったから。


一拍遅れて、会場が騒然とした。


「止まったぞ」


「故障か?」


「いや、落ちなかった。安全装置か?」


私は息を吐いた。


膝が少しだけ笑いそうになったが、立っていられた。


「ただいまの停止は、光核過熱に対する安全付与の作動です。会場の皆様に危険はありません」


声が届くように、ゆっくり言った。


貴族たちの視線が、天井から私へ移る。


痛かった視線が、少しずつ違う熱を帯びる。


バスティアン様の顔色が変わった。


「なぜ停止した。君が妙な細工をしたのではないか」


「保守記録に記載済みです。予備冷却石を外した場合、第三段階手前で停止します」


「そんな記録は」


「局長室提出分と、私の控えがあります。どちらをご確認なさいますか」


バスティアン様の口が閉じた。


控え、という言葉が効いたのだと思う。


私は、工具箱を持つ左手に力を込めた。


中には、私の人格印で封じた控え台帳が入っている。王宮に置いて帰らなかった、数少ない私のもの。


レオンハルト殿下が一歩近づく。


「リディア。今は意地を張る時ではない。王家の面目がかかっている。直せ」


「承知しました」


私は小さく頷き、手袋の内側から折りたたんだ紙を出した。


「こちらが緊急出張修理の料金表です。夜間、公開行事中、過熱光核、保守記録不備ありの場合、基本料金の四倍となります。安全試験には最低三日。作業着と防護具の用意も必要です」


沈黙。


それから、扇の陰で誰かが吹き出した。


すぐに咳払いへ変わったが、遅かった。


別の場所からも、小さな笑いが漏れる。


レオンハルト殿下の頬が赤くなった。


「金を取るつもりか」


「はい。退職済みの付与師ですので」


「君は侯爵家の令嬢だろう」


「付与師でもあります」


私は料金表を両手で差し出した。


礼儀正しく。


できるだけ、完璧な角度で。


「ご依頼なさいますか」


殿下の手は、料金表を受け取らなかった。


会場のざわめきが、今度ははっきりと色を変えた。


婚約を破棄された令嬢。


王宮魔導具を止めた無能。


さっきまで私に貼られていた紙札が、薄く剥がれていく音がした気がした。


代わりに、誰かが呟く。


「あの安全付与を入れたのは、エルンスト侯爵令嬢なのか」


「では、局の発表は……」


バスティアン様が鋭く振り返った。


その瞬間だった。


「そこまでにされるといい」


低い声が、大広間の入口側から響いた。


人垣が割れる。


黒に近い深緑の礼服をまとった長身の男性が、月明かりの中を歩いてきた。


セドリック・ヴァレンティン公爵。


北の辺境を治める、王国でも指折りの大貴族。王宮の舞踏会に滅多に姿を見せない人として知られている。


彼はレオンハルト殿下へ一礼し、次に私へ視線を向けた。


灰色の瞳が、私の顔ではなく、まず手を見た。


工具箱の取っ手を握る私の指先。


白くなるほど力が入っていることに、気づかれた。


私は慌てて手を緩める。


「ヴァレンティン公爵。これは王家の問題だ」


レオンハルト殿下の声には、とげがあった。


セドリック公爵は表情を変えない。


「婚約については、そうでしょう。ですが、付与師の職務契約については別です」


その言葉に、胸の奥で何かが鳴った。


さっき、私が言ったことと同じだった。


けれど、公爵の声で告げられると、会場の空気が重みを増す。


「婚約を破棄されたのであれば、リディア嬢はもはや王太子妃候補ではない。王宮魔導具局の任用契約も満了している。ならば、彼女の人格印と作業時間は彼女自身のものです」


バスティアン様が唇を引き結ぶ。


「公爵は、王宮魔導具局の運営に口を出されるおつもりか」


「いいえ。契約権の侵害を見過ごさないだけです」


静かな声だった。


怒鳴っていない。


それなのに、誰もすぐには返せなかった。


私でさえ、息を忘れた。


守られた、と思うには早い。


公爵は制度の話をしているだけだ。私個人のためではない。


そう考えたのに、彼は懐から小さな布包みを取り出し、私の前へ差し出した。


「冷えます」


「……え?」


「手が震えている。光核の近くにいた付与師は、冷えを後回しにしがちだと聞いています」


布包みの中には、掌ほどの温石があった。


辺境産の黒い鉱石に、柔らかな保温付与がかかっている。温度は高すぎず、指を包むくらいでちょうどいい。


受け取ると、手袋越しにじんわり熱が広がった。


目の奥が、危なかった。


大広間の真ん中で泣くわけにはいかない。


婚約破棄では泣かなかったのに、温石ひとつで崩れるなんて、あまりに間が悪い。


「ありがとうございます」


どうにか、それだけ言った。


セドリック公爵は頷き、もう一枚の書類を差し出した。


今度は、白ではなく淡い羊皮紙。


公爵家の紋章が押されている。


「ヴァレンティン公爵領の工房で、寒冷地用生活魔導具の安定付与師を探しています」


私は、紙面を見た。


職務内容。報酬。休暇。作業時間。保守責任の範囲。人格印の使用条件。


どの項目も、恐ろしいほど明確だった。


「君の付与を、正当に買う仕事がある」


公爵の声が、薄暗い大広間にまっすぐ落ちた。


背後で、止まったシャンデリアが小さく軋む。


王宮の光は消えたまま。


私の手の中の温石だけが、静かに温かかった。

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