08
一方、王宮では阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。かつて美しい白壁を誇った回廊には、うっすらと黒い瘴気が漂い、あちこちから家臣や侍女たちの苦悶の呻きが響いた。
「……っ、げほっ!がはっ!な、なんだこれは……何が、起きているというのだ……っ!」
第一王子カイル・アルドリックは、自室の鏡に映った姿を見て、血の気が引いていくのを感じていた。自慢だった艷やかな金髪は、ボロボロになり、肌にはどす黒い斑点が浮き出ている。喉の奥は、常に熱した鉄を押し当てられたように焼け付き、激しい痛みに襲われていた。そこへ、バン、と荒々しく扉が開き、顔を真っ青にした医官が飛び込んでくる。
「カイル殿下! こ、国王陛下がまた大量の血を吐かれ、意識を失われました!もはや一刻の猶予もございません!」
「黙れ!父上だけではない、この私を見ろ!この原因不明の病を、今すぐ治せと言っているだろう!」
「それが……手を尽くしてはいるのですが、薬が全く効かないのです!これは病などではなく、極めて凶悪な、それこそ王宮全体に満ちている魔毒の仕業としか……っ。」
「魔毒だと……!?ふざけるな、この城には聖女がいるのだぞ!」
カイルは医官を突き飛ばすと、ふらつく足取りでアンゼリエッタの部屋へと向かった。部屋に押し入ると、そこにはお気に入りの豪奢なソファの上で、頭を抱えてガタガタと震えているアンゼリエッタの姿があった。彼女の肌にも、カイルほどではないが、黒い斑点が出現し始めている。
「アンゼリエッタ!早く、早く浄化をしてくれ!私のこの苦しみを、今すぐその聖女の力で癒やすんだ!」
カイルはアンゼリエッタの肩を掴み、怒鳴り散らすように詰め寄った。しかし、アンゼリエッタは怯えた目で首を振るばかりだ。
「そ、そんなこと言ったって……!やってるわよ!さっきから何度もやってるわよぉ!」
「ならなぜ治らない!現に大気は澱み、私の体は腐りかけている!早く光を放て!」
「うるさいわね!ひ、光れ!光りなさいよぉぉっ!!」
アンゼリエッタがヒステリックに叫び、カイルに向けて必死に両手をかざす。だが、その指先から放たれたのは、人々の心を癒やす清らかな光などではなかった。じわじわと溢れ出したのは、どろりとした漆黒の霧。それはカイルの肌に触れた瞬間、パチパチと音を立てて肉を焼き、周囲の絨毯や家具を黒く焦がしていく。
「ぎゃああああっ!?痛い、痛い!何を、何をするアンゼリエッタ!」
「いやぁっ!違う、違うの!私はただ、いつも通りにお祈りを……っ!」
あまりの激痛にカイルが床へのたうち回る中、王宮の魔力計がけたたましい音を立てて粉々に砕け散った。そこでようやく、真実が判明した。アンゼリエッタの能力は、最初から浄化などではなかったのだ。彼女の本質は、自身の傲慢さや嫉妬、他者への悪意といった負の感情を魔毒として精製し、周囲へ擦り付けるという、極めて邪悪で忌まわしいものだった。
「そんな……まさか……。では、今までお前が『浄化の光』と呼んでいたものは……」
「私、知らない……っ。でも、お姉様がいた頃は、お祈りをすればみんなすっきりしたって喜んでくれたのよ!私の光は本物のはずよ!」
そう、リゼットがいた頃は。アンゼリエッタが毒を振りまくたび、その傍らにいたリゼットが、自身の卓越した毒耐性と無自覚な浄化能力によって、大気中に放たれた魔毒をすべて自らの体に吸い込み、身代わりとなって肩代わりしていたのだ。リゼットが毎日冷や汗を流し、血管を焼かれるような激痛にのたうち回っていたのは、アンゼリエッタが食事に盛った毒のせいだけではない。アンゼリエッタという存在そのものが放つ邪悪な澱を、すべてその身に受け止めていたからだった。この王国の平和と栄華は、リゼットという完璧な器の犠牲の上にのみ成り立っていた砂上の楼閣だった。
「お前が……お前が聖女などではなく、この災厄の元凶だったというのか……!?」
「ひどいわカイル様!お姉様を『毒婦』だって言って追い出したのは、カイル様の方じゃない! 私のせいにするな!」
「黙れ! 貴様さえいなければ、私は、私は……っ!」
カイルは焼け付く喉をかきむしり、血を吐きながら床に這いつくばった。脳裏に浮かぶのは、どれほど理不尽に虐げられても、決して他人を呪うことなく、静かにすべてを受け止めていた美しい姉の姿。自分を真っ直ぐに見つめていた、あの穏やかな瞳。彼女を失った代償は、じわじわと、けれど確実に、この愚かな者たちの肉体と国家を内側から腐らせ、崩壊へと導いていく。
「ああ……リゼット……っ、リゼット!!お前が、お前が必要だ……っ!どこだ、どこへ行った!衛兵!騎士団を動かせ!あの女を、今すぐ、何が何でもここへ連れ戻せぇぇぇっ!!」
カイルの血を吐くような絶叫が、どす黒い瘴気に包まれた王宮の天井に、虚しく反響し続けるのだった。




